元禄16年(1703年)には地内の勝目殿屋敷から出火、町域内の下町まで延焼し、士屋敷248所(1,006軒)、町屋敷385所(790軒)、南林寺及び脇寺12所(51軒)、門前90所(170軒)を焼失する大火となった[4]。
加治屋町の区域に居住していた下級武士の中には江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した者が多くおり、西郷隆盛、大久保利通[注釈 1]、西郷従道、大山巌、東郷平八郎、樺山資紀などの英傑と呼ばれる人物を数多く輩出した。現在ではそれぞれの生地に記念碑が建立されている[4][19]。
また、明治維新から日露戦争までの期間に活躍した政治家、軍人など明治政府の中枢の多くを加治屋町出身者が占めていた。このことから『翔ぶが如く』など数多くの歴史小説を執筆している歴史小説家の司馬遼太郎は加治屋町について以下のように述べている[12]。
「いわば、明治維新から日露戦争までを、一町内でやったようなものである。」
なお、江戸時代の遺物となるものは西南戦争の戦闘(1877年)や鹿児島大空襲(1945年)により焼失しているが、区画や通りは江戸時代当時のままとなっている[11]。
1871年(明治4年)に実施された廃藩置県により鹿児島県が設置され、加治屋町は鹿児島県鹿児島府下の町となった。 1888年(明治21年)に公布された市制(明治21年法律第1号)に基づき、1889年(明治22年)2月2日に官報に掲載された「 市制施行地
市制施行以降
1918年(大正7年)4月5日には加治屋町で80戸を焼失する火災が発生した[23]。また、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)4月1日には加治屋町や田上町、下荒田町などがアメリカ軍の大型爆弾による空爆を受け(鹿児島大空襲)、当日空爆を受けた区域で死者587名、負傷者424名の被害を受けた[24]。
1948年(昭和23年)に鹿児島大空襲により焼失した南林寺町の鹿児島市立病院が加治屋町(当時は樋之口町)に再建し、治療棟及び病棟が各1棟ずつ設置された[25]。その後病棟の増設が行われ、鹿児島県災害拠点病院に指定されるなど鹿児島県の医療機関の中枢を担っていたが、施設の老朽化や駐車場が手狭であることから、2015年(平成27年)に上荒田町の日本たばこ産業鹿児島工場跡地に病院施設を移転した[14]。
1962年(昭和37年)に住居表示に関する法律が施行されたのに伴い、鹿児島市は鹿児島市街地域の住居表示に着手した[8]。1963年(昭和38年)9月には加治屋町の全域で住居表示が実施され[8]、住居表示の実施に伴い町の区域の再編が行われ、樋之口町の一部を加治屋町に編入した[26]。
1985年(昭和60年)9月30日に伊敷町の伊敷町電停から加治屋町の加治屋町電停までを結んでいた鹿児島市電伊敷線が廃止となり[27]、加治屋町電停は鹿児島市電第二期線のみが発着することとなった。
1994年(平成6年)4月28日には、幕末から明治維新にかけて薩摩が果たした役割や出身人物などを紹介する維新ふるさと館が西郷隆盛生誕地に近い甲突川左岸に開館した[13]。 実施後実施年実施前 以下の表は国勢調査による小地域集計が開始された1995年以降の人口の推移である。 加治屋町の人口推移年人口
町域の変遷
加治屋町(編入)1963年(昭和38年)樋之口町(一部)
人口
1995年(平成7年)[28]1,568
2000年(平成12年)[29]1,610
2005年(平成17年)[30]1,650
2010年(平成22年)[31]1,990
2015年(平成27年)[32]2,085
文化財
国登録
鹿児島県立鹿児島中央高等学校本館及び講堂(登録有形文化財)鹿児島県立鹿児島中央高等学校の校舎の一部であり、敷地西側にある1935年竣工の鉄筋コンクリート造3階一部4階建の校舎である。2007年(平成19年)7月31日に国の登録有形文化財(建造物)に登録された[33][34]。
施設鹿児島県立鹿児島中央高等学校鹿児島加治屋町郵便局