劉邦
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

張良は始皇帝暗殺に失敗した後に、旧の地で兵士を集めて秦と戦おうとしていたが、それに失敗して留(沛の東南)の景駒の所へ従属しようと思っていた[24]。張良自身も自らの指導者としての資質の不足を自覚しており、自らの兵法をさまざまな人物に説いていたが、誰もそれを聞こうとはしなかった。ところが劉邦は、出会うなり熱心に張良に言葉を聞き入り、張良はこれに感激して「沛公はほとんど天性の英傑だ」と劉邦のことを褒め称えた[25]。これ以降、張良は劉邦の作戦のほとんどを立案し、張良の言葉を劉邦はほとんど無条件に聞き入れ、ついには天下をつかむことになる。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}劉邦と張良の関係は、君臣関係の理想として後世の人に仰ぎ見られることになる[誰?]。その頃、景駒は項梁によって殺され、項梁は薛の地にて各地の諸将を招集し、陳勝の死を確認した上で、反秦勢力の新たな頭領として今後の計画に関する会盟を執り行った。また旧懐王の孫にあたる熊心という人物を探し出して楚王の位に即け、祖父と同じ懐王の号を与えて名目上の君主として擁立した。この会盟には劉邦も参加し[26]、項梁の勢力へと参入する事となる。そして項梁より新たに5000人の兵と10名の将を得て、ようやく豊の地を奪還する事に成功した[27]

項梁は何度となく秦軍を破ったが、それと共に傲慢に傾いて秦軍を侮るようになり、章邯軍の前に戦死した。劉邦たちは遠征先から軍を戻し、新たに反秦軍の根拠地に定められた彭城(現在の江蘇省徐州市)へと集結した[28]。項梁を殺した章邯は軍を北へ転じてを攻め、趙王趙歇の居城の鉅鹿を包囲したため、趙は楚へ救援を求めてきていた。そこで懐王は宋義・項羽・范増を将軍として主力軍を派遣し、趙にいる秦軍を破った後、咸陽へと攻め込ませようとし、その一方で劉邦を別働隊として西回りに咸陽を衝かせようとした。そして懐王はこうした行軍の条件に差を設けた上で、「一番先に関中(咸陽を中心とした一帯)に入った者を、その地の王としよう」と約束した[29]
関中入り

劉邦は西に別働隊を率いて行軍し、剛武侯の軍の兵4000を奪った後、魏の将軍の皇欣・申徒・武蒲らと合同して昌邑を攻めたものの、これを落とす事はできず、高陽(現在の河南省開封市杞県)へと向かった[30]。ここで劉邦は儒者?食其の訪問を受ける。劉邦は大の儒者嫌いで、?食其に対しても、足を投げ出してその足を女たちに洗わせながら面会するという態度であった。しかしこれを?食其が一喝すると、劉邦は無礼を詫びて?食其の進言を聞いた[31]。?食其は「近くの陳留は、交通の要所であり秦軍の食料も蓄えられているのでこれを得るべきである。城主は反秦軍を脅威に思っているが、民衆からの復讐を恐れているので、降るに降れない。降っても身分を保証すると約束して頂ければ、帰順させるよう説得する」と言った。劉邦はこれを採用し、陳留の県令は説得に応じて降り、交通の要所と大量の兵糧を無血で手に入れた。さらに劉邦はその兵力を合わせて進軍し、大梁を攻め落とした。次いで韓に寄り、寡兵で苦戦していた韓王成と張良を救援して、楊熊率いる秦軍を駆逐し、韓を再建した。そしてその恩義をもって、張良を客将として借り受ける[32]

さらに南陽郡を攻略し、郡守の呂?を撃破して、呂?が宛(現在の河南省南陽市宛城区)に逃げ込んだために張良の助言でこれを包囲した[33]。呂?の舎人である陳恢の説得に応じて、これを降伏させると、呂?に殷侯の爵位を封じて宛の地を守らせ、[34]。そして魏の人物であるィ昌を秦に派遣するが、この間に項羽の軍が章邯率いる秦の主力軍を撃破し(鉅鹿の戦い[35]、秦の内部では動揺が走った。始皇帝の死後、秦の朝廷では宦官趙高が二世皇帝胡亥を傀儡として専横をふるっていたが、この敗戦が胡亥に伝われば自分が責任を取らされると考え、胡亥を弑殺した上で、反乱軍を率いる劉邦に対して、関中を二分して王になろうという密書を送った[36]。劉邦はこれを偽者だと思い、自らの軍をもって武関の守将を張良の策によってだまし討ちにし、これを破って武関を突破した[37]

さらに藍田にて再び秦軍と対峙し、大量の旗を掲げて見せ掛けの兵数を増やし、兵達による略奪を禁じたため、秦の民衆は喜び、反乱軍は再び勝利を収めた[38]。史記の張良の伝である「留侯世家」では、武関の撃破の次の戦いは別の拠点である嶢関の攻略戦であり、張良の策によりまず秦の将軍を降伏させた後で、城内に残る兵士達は士気が高くなおも降伏はしないと見越し、騙し討ちで制圧して嶢関を突破した後に、逃げる兵達を追って藍田にて交戦したとされる[39]

劉邦の軍はやがて覇上(現在の陝西省西安近郊の河川・覇水の周辺の地名)にまで迫った[40]。秦の朝廷ではこの頃、胡亥を暗殺した趙高によって皇族の子嬰が新たに擁立されるも、子嬰は逆に趙高を暗殺し、自らは皇帝ではなく秦王を名乗っていた。子嬰は白装束に首紐をかけた姿で劉邦の軍の前に現れ、皇帝の証である玉璽などを差し出して降伏した[41]。部下の間には子嬰を殺してしまうべきだという声が高かったが、劉邦は「懐王は儂の寛容さに期待を持ったからこそ、儂をここに派遣したのだ。加えて降伏した者に手を掛けるのは不吉だ」と話し、子嬰を官吏に落とすのみで許した上で、咸陽に入城した[42]
漢王劉邦

入城した劉邦は宮殿の中の女と財宝に目がくらみ、ここに留まって楽しみたいと思ったが、部下の樊?と張良に諫められると一切手を付けず、覇上へと引き上げた[43]。そして関中の父老(村落のまとめ役)を集め、秦の時代の事細かな上に苛烈な法律を「人を殺せば死刑。人を傷つければ処罰。物を盗めば処罰」の三条のみに改めた「法三章」による統治を宣言した。この施策に関中の民は歓喜し、牛・羊の肉や酒などを献上しようとしたが、劉邦は「我が軍の食料が十分だから断るのではない。民に出させるに忍びないのだ」とこれを断った。これを聞いた民衆の劉邦人気は更に大きく高まり、劉邦が王にならなかったらどうしよう、と話し合うほどとなったとされる[44]

その頃、東から項羽が関中に向かって進撃してきていた。劉邦はある人の「あなたが先に関中に入ったにもかかわらず、項羽が関中に入ればその功績を横取りする。関を閉じて入れさせなければあなたが関中の王のままだ」というを進言を聞いて、関中を守ろうとして関中の東の関門である函谷関に兵士を派遣して守らせていた[45]。劉邦が関中入りできた最大の要因は、秦の主力軍の相手を項羽が引き受けたことにあり、それなのに劉邦は既に関中王になったつもりで函谷関を閉ざしていることに激怒した項羽は、英布に命じてこれを破らせた[46]。項羽の軍師范増は、劉邦が関中で聖人君子の如く振る舞ったのは天下を狙う大望有るゆえと見て、殺すべきと進言。先の激怒もあって、項羽は40万の軍で劉邦を攻めて滅ぼしてしまおうとした。劉邦の部下である曹無傷は、これに乗じて項羽に取り入ろうと「沛公は関中の王位を狙い、秦王子嬰を宰相として関中の宝を独り占めにしようとしております」と讒言した[47]ので、項羽はますます激怒した。

項羽軍は劉邦軍より兵力も勇猛さも圧倒的に上であり、劉邦はこの危機を打開しようと焦っていたが、ちょうどその時、項羽の叔父である項伯が劉邦軍の陣中に来ていた。項伯はかつて張良に恩を受けており、その恩を返すべく危機的状況にある劉邦軍から張良を救い出そうとしたのである。しかし張良は劉邦を見捨てて一人で生き延びることを断り、項伯を劉邦に引き合わせて何とか項羽に弁明させて欲しいと頼み込んだ。項伯の仲介が功を奏し、劉邦と項羽は弁明のための会合を持つ。この会合で劉邦は何度となく命の危険があったが、張良や樊?の働きにより虎口を脱した。項羽は劉邦を討つ気が失せ、また弁明を受け入れたことで討つ名目も失った。これが鴻門の会である。陣中に戻った劉邦は、まず裏切者の曹無傷を処刑してその首を陣門に晒した。

その後、項羽は咸陽に入り、降伏した子嬰ら秦王一族や官吏4千人を皆殺しにし、宝物を持ち帰り、華麗な宮殿を焼き払い、さらに始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出している。劉邦の寛大さと対照的なこれらの行いは、特に関中の人民から嫌悪され、人心が項羽から離れて劉邦に集まる一因となっている。

項羽は彭城に戻って「西楚の覇王」を名乗り、名目上の王である懐王を義帝と祭り上げて辺境に流し、その途上でこれを殺した。紀元前206年、項羽は諸侯に対して封建(領地分配)を行う。しかしこの封建は非常に不公平なもので、その基準は功績ではなく、項羽との関係が良いか悪いかに拠っていたため多くの不満を買い、すぐ後に次々と反乱が起きるようになる。劉邦にも約束の関中の地とはいえ、咸陽周辺ではなくその西側の一地方であり奥地・辺境である漢中および巴蜀が与えられた(当時「関中」には統一以前の秦の領土を指す意味もあった)。このとき劉邦を「左に遷す」と言ったことから、これが左遷の語源になったと言われている。さらに劉邦の東進を阻止するために、関中は章邯ら旧秦軍の将軍3人に分割して与えられた。

当時の漢中は、流刑地とされるほどの非常な辺境であった。そこへ行くには「蜀道の険」と呼ばれる、人一人がやっと通れるような桟道があるだけで、劉邦が連れていた3万の兵士は途中で多くが逃げ出し、残った兵士も東に帰りたいと望んでいた。
項羽との対決

この時期に劉邦陣営に新たに加わったのが韓信である。韓信は元は項羽軍にいたが、その才能がまったく用いられず、劉邦軍へと鞍替えしてきたのである。最初は単なる兵卒や下級将校であったが、やがて韓信の才能を見抜いた蕭何の推挙により、大将軍となった。その際に韓信は、「項羽は強いがその強さは脆いものであり、特に処遇の不満が蔓延しているため東進の機会は必ず来る。劉邦は項羽の逆を行えば人心を掌握できる」と説いた。また、「関中の三王は20万の兵士を犠牲にした秦の元将軍であり、人心は付いておらず関中は簡単に落ちる。劉邦の兵士たちは東に帰りたがっており、この帰郷の気持ちをうまく使えば強大な力になる」と説いた。劉邦はこの進言を全面的に用いた。

そして韓信の予言通り、項羽に対する反乱が続発し、項羽はその鎮圧のため常勝ながら東奔西走せざるを得なくなる。項羽は劉邦にも疑いの目を向けたが、劉邦は張良の策によって桟道を焼き払って漢中を出る意志がないと示し、更に項羽に対して従順な文面の手紙を出して反抗する気がないように見せかけていた。これで項羽は安心し、反乱を起こしていた田栄を討伐に向かった。

それを見た劉邦は、桟道以前に使われていた旧道を通って関中に出撃し、一気に章邯らを破って関中を手に入れ、ここに社稷を建てた。

一方、遠征先の斉でも、項羽は相変わらず城を落とすたびにその住民を皆殺しにする蛮行を繰り返したため、斉の人々は頑強に抵抗した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:74 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef