劉裕
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この進言は却下したのだが、のちに劉毅との戦端がひらかれたときに劉裕は「あのとき卿の進言を受けていれば、こんな事態には陥らなかったな」と語った[34]


妻の兄の臧Zは晋国内の学問や教育に深く携わる立場である。故に劉裕は義兄に宛て、学問の勃興を願う手紙をしたためている。その書面の内容は「劉裕与臧Z書」と呼ばれ、書道におけるテーマの一つとして知られている[35]


司馬休之の部下である韓延之の声望は、劉裕も聞き及ぶところだった。そこで劉裕は密書をしたため、「そなたらにも軍を差し向けるような形になってしまってはいるが、そもそもそなたらには何の落ち度もない。我は分け隔てなく、多くの者を迎え入れたいと思っている」と勧誘した。これに対し、韓延之は「今まさにわが主を討たんとしているにもかかわらず、この私に向けては甘言を囁かれる。なるほど、確かにその手段はなりふり構わぬもので御座いますね!」と痛烈に批判。それを読んで劉裕は嘆息し、「これぞまさに人に仕えるものの気概だな」と周囲の人間に示した[36]


司馬休之を攻めるにあたり、初戦にて娘婿の徐逵之らを失う痛手を受けた。この事態に劉裕は激怒し、自ら先陣を切ろうとする。引き留めようとした謝晦に「斬るぞ!」と恫喝したが、「臣なくとも天下は回りましょうが、あなた様なしでは回りますまい!」と返され、ようやく思いとどまった[37]


王鎮悪は劉裕が司馬休之と戦っている間、参戦しようとせず周辺での収奪行為をなしていた。劉裕はその振る舞いに激怒、王鎮悪を呼び出し咎めようとしたが、むしろ王鎮悪に説き伏せられ、不問とした[38]


後秦滅亡を果たした功績の第一等は王鎮悪であったが、彼はその貪婪さでも有名であった。長安陥落後多くの宝物を私蔵、その上であとから到着した劉裕を出迎えた。劉裕が王鎮悪に「この覇業を成し遂げたのは、まさにそなたの力あってのものだ」と労うと、王鎮悪は「劉裕様のご威光や諸将の力あってのものであり、私にどれほどの功績がありましょう!」と答えた。劉裕はそれを聞いて「そなたには馮異に学んでほしいものだが」と笑った。光武帝配下将の馮異は功績のみならず財産に対しても恬淡であったため、そうからかったのである[39]


長安入りした後、姚興の娘を妾として寵愛したが、謝晦に諫められたため、すぐに暇を出した[40]


劉裕は長安で古の秦の宮殿があった辺りを散策し、その場が昔の面影を留めていないことを鄭鮮之に嘆いたところ、鄭鮮之は『過秦論』を引き合いとして栄枯盛衰を語った、とされる。ただしこちらは『東西晋演義』と呼ばれる、いわばフィクションよりの取材であり、実際の対話であったとは考えづらい[41]


劉裕が長安から建康に戻ろうかというとき、劉義真の副官に王鎮悪をつけた。王鎮悪は長安の生まれであり、誰もがその裏切りを懸念していた。沈田子がそのことを劉裕に告げると、劉裕は「やつの周りにはそなたらがいる。もしやつが良からぬことを企んだところでそれは自滅するに過ぎない。もうこれ以上は言ってくれるな」と回答した[42]


赫連勃勃による長安失陥を受け、劉裕は再度の北伐をせんと立ち上がった。しかしそれは謝晦や鄭鮮之の説得により思い留められた[43]


劉裕はもともと武を優先し、学問には心得がなかった。貴顕となってからは教養もなければならないと一念発起、清談に挑戦もしている。しかし皆劉裕に遠慮し、本気で論破をすることはなかった。その中にあって鄭鮮之は容赦なく論破。このことに対し劉裕は「この無学者を本気でねじ伏せてくれるのは、彼だけなのだ」と感じ入っている。ただし鄭鮮之は普段から劉裕にその直剛ぶりをからかわれるような、比較的気安い間柄であったことを付記しておく[44]


宋王に任ぜられた後、劉裕は主だった臣下らとともに宴会を開いた。その折に「我が地位が低かった頃、このような立場になりたいとは願ってもいなかったのだが」と述懐している[45]。あわせて「これだけの栄達をしてしまっては心安らぐ暇もない。かくなる上は爵位を返還の上、建康にて余生を送りたいものだが」と語った。劉裕の出身は京口であり、建康ではない。この言葉の違和感に気付いた傅亮は、真夜中、すでに戸締まりのなされた劉裕の屋敷に訪問し、禅譲の手続きを勧めたい、と劉裕に発案した[46]


劉穆之の死後、劉裕は自らの補佐がいなくなった、と嘆いていた。それに対し范泰が「英才は他にもおりましょう。確かに劉穆之の功は絶大ですが、結局は志半ばで倒れてしまったではないですか」と応じると、劉裕は笑いながら「そなたは真の名馬の素晴らしさを知らんのだ」と語った[47]


劉裕・劉道憐兄弟と親交の厚かった貴族の謝裕が死亡。その絶望を劉道憐に宛てた手紙の中で、以下のように記している。「このショックからは、なかなか立ち直れそうにない。お前とて似たようなものだろう。あの方には多くのことを受け入れていただいた。これから先にもともに仕事させていただきたい、と思っていたのに。どうすればいい、どうすればいいのだ!」[48]


即位後の劉裕は、主要な領地の統括を血族で固めていた。中でもお膝元である揚州刺史の座を、弟の劉道憐でなく次男の劉義真に与える。この人事を義母の蕭文寿が咎めたところ、「息子であればその決裁に関する諮問は自分のもとに来ます。しかし道憐に任せたらそうは行かない。加えて揚州刺史の仕事は非常に多く、とても道憐ではさばききれんのです」と言い切った[49]


病に倒れた時、臣下らは祈祷師を呼んで平癒を祈ろうとしたが、劉裕はそれを却下した。祈祷のたぐいを信じていなかったがゆえである[50]


劉裕が危篤の床に伏したとき、皇太子の劉義符に向け、以下のように告げている。「檀道済に幹略はあるが、大きな戦略を描けるような人間ではない。徐羨之や傅亮にはまず叛意などないだろう。謝晦は何度か従軍させたが、非常に機略に通じている。叛意が芽生えるとしたら、おそらくこの男からだ。会稽郡か江州辺りに左遷しておいた方がいいだろう」[51]


劉裕は己を厳しく律し、法度をもまた厳正に整えた。彼の馬には余計な飾り物などなく、けばけばしい楽奏などにうつつを抜かすこともなかった。財貨はすべて外府に預けており、私藏することはなかった。何事にも簡素を好み、履物は常に木の下駄、神虎門から散歩に出ることを好んだが、從者は多くとも十数人ほどであった。自室では子らと共に過ごし、ひとたび公務を離れれば公服を擲ち、家族らと親しんだ。のちに孝武帝劉駿が劉裕の居宅を取り壊して、その跡地に玉燭殿を建築しようと考えた。そこで群臣らとともにそこに入ってみれば、土がむき出しの壁に、葛の粗末な燈籠や、麻の繩拂が掛かるのみであった[52]


長女の劉興弟には貧しかったころの着物を与えたうえで、「我々の出自が飽くまで貧しかったことを忘れ、贅沢におぼれるものがあったら、これを示して戒めるように」と語っている。後日、劉興弟は劉義隆を諫める際にその着物を用いている[53]


自他ともに厳しい劉裕であったが、初孫(劉興弟と徐逵之の子)の徐湛之と五男の劉義恭には非常に甘く、常に側に侍らせるほどの寵愛を見せていた[54]


劉裕は熱病を持病として抱えていたが、加えて晩年には現役時代の戦傷がひどく痛むようになり、座るにも寝るにも常に冷やしておかねばならなかった。
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