劉裕
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のちに王謐は桓玄の配下として働いたが、過去の恩義より劉裕は王謐の罪を問わず、むしろ新政権においても大いに重んじた[22]


沈田子の父は孫恩に参与しており、その為祖父や沈田子自身は反逆者の家族として追われる身となっていた。逃亡生活中の沈田子と出会った劉裕はその素質に感じ入り、匿うことを決意。「あなたは罪人として扱われている。今はただ付いてきなさい、そうすれば大丈夫だ」と告げ、沈田子のための家を与えた[23]


劉牢之が桓玄に殺されたあと、何無忌が劉裕に今後の身の振り方を問うた。劉裕は単身でいれば危ういことを述べたうえ、共に京口に戻るべきことを勧めた[24]


桓玄を打倒した直後、劉裕は妻の弟の臧熹とともに宝物庫に入った。多くの宝物が所蔵されているのを見て、劉裕が臧熹に「この宝物が欲しくないか?」と尋ねる。すると臧熹は「いまはお国の再興に専念するべきであり、我が楽しみにうつつを抜かしておるいとまはありません」と反論した。劉裕は笑って「そなたをからかってみたのだ」と言った[25]


劉裕が桓玄を打倒した直後、劉穆之の声望を聞き、「いま未曾有の大仕事に取り掛かっており、事務官が急ぎ必要だ。誰かいい人物を知らないか?」と劉穆之に問うた。劉穆之は「あなたの仕事を支援するには才覚が求められられます。あなたの目の前にいる人間の才能を超えるものは、ほぼ見当たらないでしょう」と回答した。劉裕はこの返答に「あなたが自ら従ってくれたのならば、ことは済んだようなものだ」と笑った[26]


劉裕が実権を握った後、朝廷に音楽が流れていないことを殷仲文が指摘した。興味がないのだと劉裕が返答すると、殷仲文は「聴いていけばわかるようになる」と更に言う。そこで劉裕も「だから聞きたくないのだ」と答えている[27]


劉裕が南燕征伐に出ようかと言うときに、南燕軍が行軍ルートの糧秣を焼き払い、途中の補給ができなければ危険であると説くものがあった。劉裕は南燕軍はそこまで頭が回らないと一笑に付したが、内心では一抹の不安を抱えていた。いざ進発し、南燕領内に差し掛かると、進軍ルートには穀物が実るがままとなっていた。それを見て劉裕は天を指さして言った。「吾が志は、ここに果たされた!」[28]


劉裕は普段、劉穆之に絶大な信任を置いていた。「字が下手なら一枚の紙に六、七文字くらいの大きさで堂々と書けば良い」とのアドバイスを受けても、素直に従うほどである[29]。しかし南燕戦において、南燕の同盟国であった後秦が「軍を引かねば我々が貴様らに襲いかかろう」と脅しをかけてきたとき、劉裕は劉穆之に相談もせず「やれるものならやってみろ」と一喝、使者を追い払う。この対応を劉穆之は責めたが、「襲うと言うならば、宣言する前にやっているさ。戦の機微というやつで、お前の管轄外だから相談しなかったのだ」と返答した[30]


劉裕は廣固城を半年以上に渡って陥落させられなかったことに激怒、城内の男たちをことごとく穴埋めにし、その妻子はみな兵士らへの褒美に当てる、と言い出す。韓范にたしなめられたため一度は思いとどまったのだが、それでも鮮卑の主だった三千人あまりは殺され、一万人余りが奴隷として捕らえられ、妻や娘たちは将兵らへの褒美となり、城郭は破壊し平地とされた[31]


広固より建康へ急行する際、長江を渡る際に強風が吹いていた。人々は風が収まるまで待つべきだと説いたが、「俺を天が助けるなら風もやむだろうさ」と渡河を強行。間もなく風も収まった[32]


盧循軍を追討する際、劉裕の陣の旗が折れ、河中に沈んだ。人々は凶兆だと恐れたが、劉裕は笑って「往年の桓玄戦でも同じようなことがあった。今また同じことがあったのだ、これは賊どもが敗れる、と言う事さ」と告げた[33]


劉毅が荊州に出向するにあたっての宴を開いた際、劉裕は配下将の胡藩より「劉毅を今のうちに殺しておくべきだ」と進言を受けた。この進言は却下したのだが、のちに劉毅との戦端がひらかれたときに劉裕は「あのとき卿の進言を受けていれば、こんな事態には陥らなかったな」と語った[34]


妻の兄の臧Zは晋国内の学問や教育に深く携わる立場である。故に劉裕は義兄に宛て、学問の勃興を願う手紙をしたためている。その書面の内容は「劉裕与臧Z書」と呼ばれ、書道におけるテーマの一つとして知られている[35]


司馬休之の部下である韓延之の声望は、劉裕も聞き及ぶところだった。そこで劉裕は密書をしたため、「そなたらにも軍を差し向けるような形になってしまってはいるが、そもそもそなたらには何の落ち度もない。我は分け隔てなく、多くの者を迎え入れたいと思っている」と勧誘した。これに対し、韓延之は「今まさにわが主を討たんとしているにもかかわらず、この私に向けては甘言を囁かれる。なるほど、確かにその手段はなりふり構わぬもので御座いますね!」と痛烈に批判。それを読んで劉裕は嘆息し、「これぞまさに人に仕えるものの気概だな」と周囲の人間に示した[36]


司馬休之を攻めるにあたり、初戦にて娘婿の徐逵之らを失う痛手を受けた。この事態に劉裕は激怒し、自ら先陣を切ろうとする。引き留めようとした謝晦に「斬るぞ!」と恫喝したが、「臣なくとも天下は回りましょうが、あなた様なしでは回りますまい!」と返され、ようやく思いとどまった[37]


王鎮悪は劉裕が司馬休之と戦っている間、参戦しようとせず周辺での収奪行為をなしていた。劉裕はその振る舞いに激怒、王鎮悪を呼び出し咎めようとしたが、むしろ王鎮悪に説き伏せられ、不問とした[38]


後秦滅亡を果たした功績の第一等は王鎮悪であったが、彼はその貪婪さでも有名であった。長安陥落後多くの宝物を私蔵、その上であとから到着した劉裕を出迎えた。劉裕が王鎮悪に「この覇業を成し遂げたのは、まさにそなたの力あってのものだ」と労うと、王鎮悪は「劉裕様のご威光や諸将の力あってのものであり、私にどれほどの功績がありましょう!」と答えた。劉裕はそれを聞いて「そなたには馮異に学んでほしいものだが」と笑った。光武帝配下将の馮異は功績のみならず財産に対しても恬淡であったため、そうからかったのである[39]


長安入りした後、姚興の娘を妾として寵愛したが、謝晦に諫められたため、すぐに暇を出した[40]


劉裕は長安で古の秦の宮殿があった辺りを散策し、その場が昔の面影を留めていないことを鄭鮮之に嘆いたところ、鄭鮮之は『過秦論』を引き合いとして栄枯盛衰を語った、とされる。ただしこちらは『東西晋演義』と呼ばれる、いわばフィクションよりの取材であり、実際の対話であったとは考えづらい[41]


劉裕が長安から建康に戻ろうかというとき、劉義真の副官に王鎮悪をつけた。王鎮悪は長安の生まれであり、誰もがその裏切りを懸念していた。沈田子がそのことを劉裕に告げると、劉裕は「やつの周りにはそなたらがいる。もしやつが良からぬことを企んだところでそれは自滅するに過ぎない。もうこれ以上は言ってくれるな」と回答した[42]


赫連勃勃による長安失陥を受け、劉裕は再度の北伐をせんと立ち上がった。しかしそれは謝晦や鄭鮮之の説得により思い留められた[43]


劉裕はもともと武を優先し、学問には心得がなかった。貴顕となってからは教養もなければならないと一念発起、清談に挑戦もしている。しかし皆劉裕に遠慮し、本気で論破をすることはなかった。その中にあって鄭鮮之は容赦なく論破。このことに対し劉裕は「この無学者を本気でねじ伏せてくれるのは、彼だけなのだ」と感じ入っている。
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