劉裕
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

謝晦らの手筈により[15]土断を施行する。ただし徐・?・青三州に住む晋陵郡に本籍のある者は例外とされた。

東晋の皇族司馬休之が劉毅滅亡後の荊州に赴任、任地にて声望を集めていた。劉裕は義熙11年(415年)1月、司馬休之らの子らの失態にかこつけて攻撃。4月に司馬休之は後秦に亡命、ここに国内の対立勢力を一掃した。
長安奪還、そして失陥

後秦では名君であった姚興が死に、子の姚泓が立った。しかしその即位によって兄弟同士の争いが起こるなど紛糾していた。この機を逃すまいと劉裕は北伐に打って出た。義熙12年(416年)8月に進軍を開始。前鋒の檀道済・王鎮悪が進む先の後秦勢力は次々と投降。10月には洛陽を陥落させる。洛陽は西晋時代の都であり、歴代皇帝の陵墓が存在している。この地の獲得により陵墓の修復がかなったことは、東晋にとり未曽有の功績である。そのため劉裕は宋公に任ぜられた。劉裕は更に進軍し、義熙13年(417年)8月には長安を陥落させ、後秦を滅ぼした。この功績から10月に宋王への進爵が諮問された。

11月、腹心である劉穆之が急死。この事態を受け劉裕は急遽帰途についた。次男の劉義真に長安の運営を任せ、その配下兵力を王鎮悪に取りまとめさせ、12月に長安を発つ。義熙14年(418年)1月に彭城入り。ここで改めて王への進爵辞退を表明した。6月には官位が相国に引き上げられ、九錫が与えられた。

一方長安では、王鎮悪が同僚の沈田子に殺害された。長安の情勢が一挙に悪化したため、10月、劉裕は劉義真の代任として朱齢石を派遣する。しかし赫連勃勃が長安を強襲。劉義真は身一つで逃げねばならない有様となり、朱齢石をはじめとした多くの将軍が戦死。かつ、長安を失陥した。
帝位簒奪

こうして朝廷を掌握した劉裕は義熙14年12月(419年1月)、中書侍郎の王韶之に命じて安帝を暗殺[16]、その弟である司馬徳文を新たな皇帝(恭帝)として擁立する。そして宋王への進爵を受諾、さらには永初元年(420年)6月に恭帝の禅譲を受け、皇帝に即位した[17]。また帝位を退いた恭帝を零陵王に降封したが、翌年の永初2年(421年)9月にはこれを殺害した[18]

永初3年(422年)5月21日、建康の西殿で崩御。長男である劉義符が即位した。徐羨之傅亮・檀道済・謝晦らが後事を託された。

後漢書』の作者の范曄、『三国志』の注釈を行った裴松之五胡十六国時代南北朝時代を代表する詩人陶淵明も劉裕に仕えていた[19]。また、『世説新語』の撰者の臨川康王劉義慶は劉裕の甥にあたる。
言動・行動

若いころ、劉裕は京口の大地主である?逵
?協の孫)より3万銭もの借金を負っていた。宋書では返済の当てがなく追い詰められていた[20]とし、魏書では踏み倒しをもくろむ[21]とされていたが、ともあれこの借金を劉裕と親交のあった琅邪王氏の名士王謐に肩代わりしてもらっている。のちに王謐は桓玄の配下として働いたが、過去の恩義より劉裕は王謐の罪を問わず、むしろ新政権においても大いに重んじた[22]


沈田子の父は孫恩に参与しており、その為祖父や沈田子自身は反逆者の家族として追われる身となっていた。逃亡生活中の沈田子と出会った劉裕はその素質に感じ入り、匿うことを決意。「あなたは罪人として扱われている。今はただ付いてきなさい、そうすれば大丈夫だ」と告げ、沈田子のための家を与えた[23]


劉牢之が桓玄に殺されたあと、何無忌が劉裕に今後の身の振り方を問うた。劉裕は単身でいれば危ういことを述べたうえ、共に京口に戻るべきことを勧めた[24]


桓玄を打倒した直後、劉裕は妻の弟の臧熹とともに宝物庫に入った。多くの宝物が所蔵されているのを見て、劉裕が臧熹に「この宝物が欲しくないか?」と尋ねる。すると臧熹は「いまはお国の再興に専念するべきであり、我が楽しみにうつつを抜かしておるいとまはありません」と反論した。劉裕は笑って「そなたをからかってみたのだ」と言った[25]


劉裕が桓玄を打倒した直後、劉穆之の声望を聞き、「いま未曾有の大仕事に取り掛かっており、事務官が急ぎ必要だ。誰かいい人物を知らないか?」と劉穆之に問うた。劉穆之は「あなたの仕事を支援するには才覚が求められられます。あなたの目の前にいる人間の才能を超えるものは、ほぼ見当たらないでしょう」と回答した。劉裕はこの返答に「あなたが自ら従ってくれたのならば、ことは済んだようなものだ」と笑った[26]


劉裕が実権を握った後、朝廷に音楽が流れていないことを殷仲文が指摘した。興味がないのだと劉裕が返答すると、殷仲文は「聴いていけばわかるようになる」と更に言う。そこで劉裕も「だから聞きたくないのだ」と答えている[27]


劉裕が南燕征伐に出ようかと言うときに、南燕軍が行軍ルートの糧秣を焼き払い、途中の補給ができなければ危険であると説くものがあった。劉裕は南燕軍はそこまで頭が回らないと一笑に付したが、内心では一抹の不安を抱えていた。いざ進発し、南燕領内に差し掛かると、進軍ルートには穀物が実るがままとなっていた。それを見て劉裕は天を指さして言った。「吾が志は、ここに果たされた!」[28]


劉裕は普段、劉穆之に絶大な信任を置いていた。「字が下手なら一枚の紙に六、七文字くらいの大きさで堂々と書けば良い」とのアドバイスを受けても、素直に従うほどである[29]。しかし南燕戦において、南燕の同盟国であった後秦が「軍を引かねば我々が貴様らに襲いかかろう」と脅しをかけてきたとき、劉裕は劉穆之に相談もせず「やれるものならやってみろ」と一喝、使者を追い払う。この対応を劉穆之は責めたが、「襲うと言うならば、宣言する前にやっているさ。戦の機微というやつで、お前の管轄外だから相談しなかったのだ」と返答した[30]


劉裕は廣固城を半年以上に渡って陥落させられなかったことに激怒、城内の男たちをことごとく穴埋めにし、その妻子はみな兵士らへの褒美に当てる、と言い出す。韓范にたしなめられたため一度は思いとどまったのだが、それでも鮮卑の主だった三千人あまりは殺され、一万人余りが奴隷として捕らえられ、妻や娘たちは将兵らへの褒美となり、城郭は破壊し平地とされた[31]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:124 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef