劉裕
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元興2年(403年)10月、桓玄が安帝司馬徳宗を廃して、国名を楚として自ら皇帝を称した(桓楚)。この際、桓玄は劉裕を高く評価し、酒宴を何度も開いて慇懃丁寧に応対し、贈与品も手厚くした。

元興3年(404年)2月、劉裕は何無忌・劉毅・諸葛長民らを同志として、桓玄打倒のため決起した。劉裕は京口にて桓玄のいとこである桓修を切り捨てると檄を飛ばし、建康に向かった。劉裕軍はわずかに1700名という寡兵であったが、桓玄の繰り出す兵はことごとく破られた。桓玄は舟で長江から江陵に逃走し、幽閉していた安帝を連れて再度東下したが、攻め上ってくる劉毅・何無忌・劉道規の軍に蹴散らされて江陵も失い、5月には蜀で馮遷に殺された。劉裕は桓玄に追放されていた安帝を復位させた。

桓玄打倒、安帝復位の功績により、劉裕は鎮軍将軍・都督十六州諸軍事とされた。
南燕征伐、五斗米道撃退

劉裕が東晋国内で発言力を高めた一方、桓玄の残党らは北西の後秦に逃げ込んだ。西では成都で?縦が謀反を起こし後蜀を打ち立て、北部では南燕や北魏が勢力を伸ばしていた。南では孫恩より五斗米道軍を引き継いだ盧循が地盤を築きつつあった。これら周辺勢力の討伐が劉裕に求められた。

元興3年(404年)3月、盧循が海伝いで番禺を破り、広州刺史の呉隠之をとらえ、実効支配をなした。ただし盧循が広州の地産品などを献上してきたため、政府は盧循の支配を追認、広州刺史としている。

義熙4年(408年)1月、揚州刺史・録尚書事につけられたが、同年9月、劉敬宣(劉牢之の子)が後蜀討伐に失敗。任命責任を負い、中軍将軍へ降格となる。

義熙5年(409年)2月、南燕軍が東晋との国境付近で大規模な略奪をなし、およそ千世帯が被害に遭った。劉裕は3月に南燕征伐を宣言。多くの者が反対したが、孟昶臧熹謝裕らの後押しを受け、敢行した[12]。7月には南燕首都の広固城を包囲したが、義熙6年(410年)2月の陥落までには半年以上の期間を要した。

同月、劉裕の不在を好機と見た盧循は広州より北上。建康との中間地点にあたる豫章にて何無忌を敗死させた。この事態を受け劉裕は南燕の鮮卑人三千余りを穴埋めにして殺害[13]、急遽南下し、4月に建康入りを果たした。5月、劉裕の制止を振り切り迎撃に出た劉毅が五斗米道軍に敗退。孟昶は「臣が五斗米道どもに付け入る隙を与えてしまった。この危機は臣の罪である」と、薬を仰ぎ自殺した。

劉裕が建康の守りをまともに整えられないうちに、盧循軍は建康に接近。そのまま上陸し攻め立てられれば敗北は必至であったが、盧循が敢えて上陸をせず様子見をする作戦をとったことから、最悪の事態は回避される。その間に劉裕は戦闘可能な兵力を石頭城に集結させ、休息及び装備の再分配をなし、周辺地域より集結してきた救援勢力と合わせて各地に兵力を配した。このとき命令違反をなす将兵は殺すなど、命令の徹底を尽くした。結果、建康防衛に成功。逃亡を開始する盧循軍に対し、追撃。義熙7年(411年)には盧循を討ち果たす。

南燕征伐、盧循討伐の功から、太尉に昇進した[14]
蜀討伐、政敵排除

義熙7年(411年)4月、荊州を任せていた劉道規が病を得、帰還を願い出た。その代任として劉毅が派遣される。ここで劉毅は、自らの派閥に属する謝混や?僧施などの招聘を願い出る。劉裕はいったん承諾するそぶりを見せたが、間もなく謝混らを捕縛、殺害。義熙8年(412年)9月に劉毅討伐を表明、出陣した。この出兵は劉毅の虚を突いていた。先遣隊の王鎮悪が到着した時点で劉毅は病に臥せっており、迎撃の備えをしていなかった。10月に劉毅は討ち取られた。

劉裕は荊州に到着すると、さらに後蜀討伐の軍を起こす。ただし親征はせず、新進の将軍朱齢石に一任し、本人は建康に帰還した。朱齢石の任用は物議を醸したが、義熙9年(413年)7月、朱齢石は後蜀を攻め滅ぼした。

建康に帰還した劉裕はクーデター決起以来の同志である諸葛長民を誅殺した後、国内の体制を整えるため奔走。謝晦らの手筈により[15]土断を施行する。ただし徐・?・青三州に住む晋陵郡に本籍のある者は例外とされた。

東晋の皇族司馬休之が劉毅滅亡後の荊州に赴任、任地にて声望を集めていた。劉裕は義熙11年(415年)1月、司馬休之らの子らの失態にかこつけて攻撃。4月に司馬休之は後秦に亡命、ここに国内の対立勢力を一掃した。
長安奪還、そして失陥

後秦では名君であった姚興が死に、子の姚泓が立った。しかしその即位によって兄弟同士の争いが起こるなど紛糾していた。この機を逃すまいと劉裕は北伐に打って出た。義熙12年(416年)8月に進軍を開始。前鋒の檀道済・王鎮悪が進む先の後秦勢力は次々と投降。10月には洛陽を陥落させる。洛陽は西晋時代の都であり、歴代皇帝の陵墓が存在している。この地の獲得により陵墓の修復がかなったことは、東晋にとり未曽有の功績である。そのため劉裕は宋公に任ぜられた。劉裕は更に進軍し、義熙13年(417年)8月には長安を陥落させ、後秦を滅ぼした。この功績から10月に宋王への進爵が諮問された。

11月、腹心である劉穆之が急死。この事態を受け劉裕は急遽帰途についた。次男の劉義真に長安の運営を任せ、その配下兵力を王鎮悪に取りまとめさせ、12月に長安を発つ。義熙14年(418年)1月に彭城入り。ここで改めて王への進爵辞退を表明した。6月には官位が相国に引き上げられ、九錫が与えられた。

一方長安では、王鎮悪が同僚の沈田子に殺害された。長安の情勢が一挙に悪化したため、10月、劉裕は劉義真の代任として朱齢石を派遣する。しかし赫連勃勃が長安を強襲。劉義真は身一つで逃げねばならない有様となり、朱齢石をはじめとした多くの将軍が戦死。かつ、長安を失陥した。
帝位簒奪

こうして朝廷を掌握した劉裕は義熙14年12月(419年1月)、中書侍郎の王韶之に命じて安帝を暗殺[16]、その弟である司馬徳文を新たな皇帝(恭帝)として擁立する。そして宋王への進爵を受諾、さらには永初元年(420年)6月に恭帝の禅譲を受け、皇帝に即位した[17]。また帝位を退いた恭帝を零陵王に降封したが、翌年の永初2年(421年)9月にはこれを殺害した[18]

永初3年(422年)5月21日、建康の西殿で崩御。長男である劉義符が即位した。徐羨之傅亮・檀道済・謝晦らが後事を託された。

後漢書』の作者の范曄、『三国志』の注釈を行った裴松之五胡十六国時代南北朝時代を代表する詩人陶淵明も劉裕に仕えていた[19]。また、『世説新語』の撰者の臨川康王劉義慶は劉裕の甥にあたる。
言動・行動

若いころ、劉裕は京口の大地主である?逵
?協の孫)より3万銭もの借金を負っていた。宋書では返済の当てがなく追い詰められていた[20]とし、魏書では踏み倒しをもくろむ[21]とされていたが、ともあれこの借金を劉裕と親交のあった琅邪王氏の名士王謐に肩代わりしてもらっている。のちに王謐は桓玄の配下として働いたが、過去の恩義より劉裕は王謐の罪を問わず、むしろ新政権においても大いに重んじた[22]


沈田子の父は孫恩に参与しており、その為祖父や沈田子自身は反逆者の家族として追われる身となっていた。逃亡生活中の沈田子と出会った劉裕はその素質に感じ入り、匿うことを決意。「あなたは罪人として扱われている。今はただ付いてきなさい、そうすれば大丈夫だ」と告げ、沈田子のための家を与えた[23]


劉牢之が桓玄に殺されたあと、何無忌が劉裕に今後の身の振り方を問うた。劉裕は単身でいれば危ういことを述べたうえ、共に京口に戻るべきことを勧めた[24]


桓玄を打倒した直後、劉裕は妻の弟の臧熹とともに宝物庫に入った。多くの宝物が所蔵されているのを見て、劉裕が臧熹に「この宝物が欲しくないか?」と尋ねる。すると臧熹は「いまはお国の再興に専念するべきであり、我が楽しみにうつつを抜かしておるいとまはありません」と反論した。劉裕は笑って「そなたをからかってみたのだ」と言った[25]


劉裕が桓玄を打倒した直後、劉穆之の声望を聞き、「いま未曾有の大仕事に取り掛かっており、事務官が急ぎ必要だ。誰かいい人物を知らないか?」と劉穆之に問うた。劉穆之は「あなたの仕事を支援するには才覚が求められられます。あなたの目の前にいる人間の才能を超えるものは、ほぼ見当たらないでしょう」と回答した。劉裕はこの返答に「あなたが自ら従ってくれたのならば、ことは済んだようなものだ」と笑った[26]


劉裕が実権を握った後、朝廷に音楽が流れていないことを殷仲文が指摘した。興味がないのだと劉裕が返答すると、殷仲文は「聴いていけばわかるようになる」と更に言う。そこで劉裕も「だから聞きたくないのだ」と答えている[27]


劉裕が南燕征伐に出ようかと言うときに、南燕軍が行軍ルートの糧秣を焼き払い、途中の補給ができなければ危険であると説くものがあった。劉裕は南燕軍はそこまで頭が回らないと一笑に付したが、内心では一抹の不安を抱えていた。いざ進発し、南燕領内に差し掛かると、進軍ルートには穀物が実るがままとなっていた。それを見て劉裕は天を指さして言った。「吾が志は、ここに果たされた!」[28]


劉裕は普段、劉穆之に絶大な信任を置いていた。「字が下手なら一枚の紙に六、七文字くらいの大きさで堂々と書けば良い」とのアドバイスを受けても、素直に従うほどである[29]


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