征西将軍の馬騰は?に駐屯していたが、劉焉・劉範父子と手を組び、董卓没後に実力者となっていた李?がいる長安を襲撃する計画を立てていた[8]。しかし、計画が洩れたため、劉範は槐里に逃亡した。長安を攻撃した馬騰の軍も敗北し、涼州に撤退した[9]。李?は逃亡中の劉範を追撃し槐里でこれを討ち取り、弟の劉誕も捕虜にされて処刑された。
議郎の?羲は、先祖代々劉焉の家と交際があったため、劉焉の孫を伴って入蜀し、そのまま劉焉に仕える事になった。
この時、落雷によって居城としていた綿竹が焼失してしまったために、劉焉はさらに奥地の成都に遷らざるを得なくなった。
興平元年(194年)、劉焉は、子らの非業の死の悲しみや災害など、相次ぐ不幸が重なったため、その心痛から背中に悪性腫瘍を患い同年に死去してしまった。
実力者であった趙?の思惑で、温仁(温厚かつ仁徳の有る人)との評判であった劉璋が後を継ぐ事になった。趙?は朝廷に劉璋を益州刺史に推挙し、朝廷からは監軍使者・益州牧を兼務することを許された。趙?も征東中郎将に任命され、荊州の劉表への攻撃を命じられた[10]。
張魯の漢中での独立と、東州兵と益州豪族との摩擦などによって、益州は混乱することになる。 陳寿は、劉焉がやみくもに天子への野心を露骨にした事を酷評している。 小説『三国志演義』では、黄巾の乱の時に幽州太守を務め、その時に劉備らと出会った事にされているが、正史では劉焉が幽州太守(刺史・州牧)に任命された事実は無い。しかし、これが後に息子の劉璋が劉備を益州に迎え入れて、劉備を遠縁の親族として兄事する伏線となっている[11]。
評価
演義での劉焉
脚註^ 高島俊男著『三国志きらめく群像』276頁によると、劉焉は章帝の皇子であった平春悼王の劉全
^ 『三国志』蜀志「劉二牧伝」の注によると、司徒の祝恬のことだという。
^ 『漢霊帝紀』
^ 『三国志』蜀志「劉二牧伝」が引く『英雄記』によると、任岐が将軍を自称し、従事の陳超
^ 『三国志』蜀志「劉二牧伝」が引く『英雄記』によると、劉範ら三人は劉焉に援助を断られた董卓により、監禁されていた事があるという。
^ 『三国志』蜀志「穆皇后伝」によると、劉焉は後に劉備の妻となる穆皇后の相が、高貴な身分になる人のものだという評判を聞いて、子の劉瑁に娶らせたのだという。
^ 『三国志』蜀志「劉二牧伝」が引く『典略』によると、劉焉は仮病を使って劉璋を呼び寄せたという。
^ 『三国志』蜀志「許靖伝」が引く『益州耆旧伝』によると、韓遂・馬騰は関中で争乱を起こした時は、度々劉焉と連絡を取り合っていたという。
^ 『三国志』蜀志「劉二牧伝」が引く『英雄記』によると、劉焉は校尉の孫肇を援軍に出して、長安で敗れたという。
^ 『英雄記』によると、長安の朝廷は潁川の扈瑁を益州刺史に任命し、荊州別駕の劉闔と劉璋の将の沈彌・婁發・甘寧を叛かせ劉璋を攻撃させたが勝てず、彼等は荊州に逃亡した。劉璋は趙?を荊州に侵攻させるため、?に駐屯させたという
^ 実際に幽州牧となったのは、宗室(広義の皇族)であった宗正の劉虞である。また、時期は不明であるが陶謙が中平元年(184年)もしくは以前に幽州刺史から議郎に転じて、同年以降に発生した羌や韓遂の反乱鎮圧に派遣されたことが知られている。
参考文献
『三国志』
『後漢書』
『三国志演義』
表
話
編
歴
陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷
魏志
(魏書)
巻1 武帝紀
太祖武皇帝曹操
巻2 文帝紀
文皇帝曹丕
巻3 明帝紀
明皇帝曹叡
巻4 三少帝紀
斉王曹芳
高貴郷公曹髦
陳留王曹奐
巻5 后妃伝
武宣卞皇后
文昭甄皇后
文徳郭皇后
明悼毛皇后
明元郭皇后
巻6 董二袁劉伝
董卓
李?
郭
袁紹
袁譚
袁尚
袁術
劉表
巻7 呂布臧洪伝
呂布
張?
陳登
臧洪
陳容
巻8 二公孫陶四張伝