劉弘_(西晋)
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これにより劉?は越騎校尉に任じられて洛陽に帰還するよう命じられた。劉?はまたその意図を察し、すぐさま洛陽へ帰還した。これ以降、荊州の地は大いに乱れたので、荊州の父老は劉弘の功徳を思慕した。甘棠の歌(周の召公の善政を称えた歌)であっても、荊州庶民の劉弘への懐念には及ばなかったという。
逸話

ある時、劉弘は夜中に目を覚ますと、城上で見張役の苦しみ嘆く声を聞いたので、何事かと思い呼び寄せた。その者は60歳を越えており、やつれ果てて服も満足に着ていなかった。劉弘はこれを哀れに思い、彼の上司を叱責し、彼に衣類と帽子を与えて別の役職に移らせた。

古い制度では、?山・方山の沢で民が魚を捕えるのを禁じていたが、劉弘は文章を下して「礼記によるならば、名山の大沢は封鎖すべきではなく、民衆と利益を共有すべきとある。今、公府が密かにこれらを搾取し、民衆に恩恵が与えられないのは、まさしく不当であり、速やかに改正すべきである」と述べた。また、劉弘は「酒蔵には斎中酒(神仏用)、聴事酒(役人用)、猥酒(百姓用)があり、同じ麹米を用いているのに、優劣が三つに分かれてしまう。しかし、醪の状態では3酒の差などないであろう」と語っていたという。

当時、総章・太楽・伶人(いずれも朝廷で歌舞を司る役職)が中央の混乱を避けて荊州に逃れていた。ある者は劉弘へ、彼らに楽を作らせるよう勧めた。しかし、劉弘は「かつて、劉景升(
劉表)は礼楽が崩壊していた事から、杜?に命じて天子の音楽を作らせた。音楽が完成すると庭で演奏させようと思ったが、杜?は『天子のために音楽を為したというのに、これを庭先で演奏するのは将軍の本意ではないでしょう』と述べたという。我はこれを聞くと、いつも嘆息させられるのだ。今、天子は乱の渦中にあって苦しまれておられるのというのに、我は臣下としての節義を全うする事ができずにいる。たとえ家伎であっても演奏させるには耐えないというのに、ましてや天子の音楽など猶更である」と述べ、郡県に命じて彼らを慰撫させ、朝廷の連絡を待って丁重に送り返し、元の官署に戻させた。

陶侃が張昌を破った時、劉弘は感嘆して陶侃へ「我がかつて羊公(羊?)の参軍であった時、羊公は『我の後には君がその地位に至るだろう』と言ってくださった。今、汝を観察するに、汝こそが我の後を継ぐ者であるな」と称えた。後に陶侃は、荊州で大いにその名を馳せる事になる。

永興年間、劉弘が鎮南将軍であったころ隆中において、蜀漢丞相諸葛亮の故宅を訪れ、石碑を立てて郷閭にその事跡を表彰した。

伝記資料

晋書』巻66 列伝36

資治通鑑』巻85 - 巻86

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