劉 少奇(りゅう しょうき、リウ・シャオチー、?少奇、1898年11月24日 - 1969年11月12日)は、中華人民共和国の政治家。凱豊や胡服などといった別名も使用した。
第2代中華人民共和国主席(国家主席)などを務め、中国共産党での序列は毛沢東党主席に次ぐ第2位であったが、文化大革命の中で失脚、非業の死を遂げた。 1898年に湖南省の寧郷県で生まれる(劉少奇故居を参照。毛沢東の出身地である韶山とは20km程度の距離で、毛沢東とは広い中国の中では「同郷」といって差し支えないほど出身地が近い)。1913年に長沙に行き鉅省中学に入学。1920年に湖南省の中国社会主義青年団(後の中国共産主義青年団)に入団。1921年にソビエト連邦に入国し、モスクワの東方勤労者共産大学で学ぶ。同年、中国共産党に入党。1922年にはコミンテルンが主催した極東諸民族大会に参加。同年に帰国後、江西省の安源炭鉱のストライキを李立三らとともに指揮して闘争を成功させ、その後も主に労働運動で活躍した。1927年に党の中央委員に選出される。 第一次国共合作の崩壊後は中国国民党支配地域(白区)を中心とした様々な地下活動に従事。1934年10月より長征に参加し、遵義会議では毛沢東を支持した。1935年の十二・九運動 1943年、延安に戻り党中央書記処(現在の中央政治局常務委員会)の書記に就任。整風運動にも従事する。1945年4月から6月にかけて開催された第7回全国代表大会(党大会)では「党規約の改正についての報告」を発表し、この中で「毛沢東思想」という言葉を初めて公式の文書に使用している。また、この大会後、第7期党中央委員会第1回全体会議(第7期1中全会)で党内序列2位の中央委員・中央政治局委員・中央書記処書記に選出された。第二次世界大戦、および日中戦争の日本の敗戦後に行われた重慶での?介石との会議に毛沢東が赴いた際には、延安で党主席の代理を務めている。建国直前の1949年7月には、党中央代表団を率いて秘密裏にソ連を訪れ、スターリンと会談した。その主要目的は、中ソ両党間の意思疎通・関係正常化と、新中国の国づくりの基本方針の説明とその了解を求めること[1]、とされる。 中国国民党との国共内戦を経て1949年に中華人民共和国が建国されると、中央人民政府副主席や人民革命軍事委員会副主席、全国人民代表大会常務委員会委員長を歴任した。1956年9月、第8回党大会で政治報告を担当し、続く第8期1中全会で中央政治局常務委員に選出され、中央委員会副主席の筆頭に位置づけられた。1958年より毛沢東の指示で実施された大躍進政策が失敗に終わると、1959年に毛沢東に代わって国家主席に就任する。毛沢東は中国共産党中央委員会主席と中央軍事委員会主席にはとどまり、党内序列も毛が1位、劉が2位であったが、国政の最高責任者についたことで形式的には毛を越える地位となった。
生涯
共産党入党
中華人民共和国建国まで
国家主席就任