劉勲
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^ 『三国志』魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』
^ 『三国志』魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』。豫州刺史になったことがあるという。
^ 『三国志』呉志「孫破虜討逆伝」が引く『江表伝』
^ 『三国志』魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』。豫州刺史であった父の死後、政治を執ったことがあるという。
^ 『三国志』「方技伝」が引く『華佗別伝』。それによれば、20歳近くになる劉勲の娘は左足の膝に腫れものができたため、華佗の治療を受けてわずか7日で完治したと記されている。
^ 『後漢書』「献帝紀」
^ 『三国志』呉志「破虜討逆伝」。なお、『三国志』呉志「孫破虜討逆伝」が引く『江表伝』によると、袁術の従弟の袁胤と女婿の黄猗は、曹操を恐れて寿春を離れ、袁術の棺と袁燿ら袁術の一族や配下を連れて、劉勲に保護を求めたという)。
^ なお、以下のような異聞が紹介されている。劉勲は従弟の劉偕を豫章太守の華?の下に派遣し食糧の援助を申し出た。しかし、華?の方でも兵糧が不足していたため、郡の役人を劉偕につけて、海昏・上繚の現地の有力者から3万石の米を供用させようとしたが、劉偕は現地に赴いて1ヶ月で数千石しか得られなかった。劉偕は劉勲に手紙を送り、現地に軍勢を送って食糧を強奪することを提案した。劉勲は自ら軍を率いて海昏に向かったところ、現地の有力者は食糧を持ち出して逃亡し、劉勲は結局何も手に入れることはできなかった。たまたま、孫策は江夏太守の黄祖を討つために遠征していたが、劉勲が本拠である皖城を留守にしていることを聞き、孫賁孫輔らの別働隊を彭沢に派遣し、劉勲の軍勢を待ち伏せさせると共に、皖城を急襲し直ちに降服させ、袁術の残した兵士と物資、それに袁術と劉勲の妻子の身柄を確保した。孫策は捕虜を呉に送りとどけると共に、廬江太守の後任に汝南の李術を任命し皖城を守らせた。劉勲は待ち伏せした孫策の別働隊に敗れ、楚江に入った後、尋陽から徒歩で置馬亭に逃げ延びたところで、本拠の皖城が孫策の手に落ちたことを知り、西塞山に身を潜めた。後に劉勲は山中にある流沂城に拠り、荊州劉表に急を告げ、さらに江夏太守の黄祖に援軍を求めた。黄祖は子の黄射に水軍5000を与えて援軍を差し向けたが、孫策は西塞山の劉勲を攻撃しこれを打ち破り、劉勲は劉偕と共に北の曹操の下へ逃れたという。(以上、『三国志』呉志「孫破虜討逆伝」が引く『江表伝』
^ そのときの劉勲は「平虜将軍」と記されている。

参考資料

『三国志』

『後漢書』

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