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昭烈帝 劉備
蜀漢
初代皇帝
昭烈帝肖像
王朝蜀漢
在位期間章武元年4月6日 - 章武3年4月24日
(221年5月15日 - 223年6月10日)
都城成都
姓・諱劉備[1]
字玄徳[2]
諡号昭烈皇帝
廟号烈祖[3]
生年延熹4年(161年)
没年章武3年4月24日[4]
(223年6月10日)
父劉弘
后妃呉皇后
陵墓恵陵
年号章武(221年 - 223年)
劉 備
各種表記
繁体字:劉 備
簡体字:? ?
?音:Liu Bei
注音符号:???? ???
ラテン字:Liu2 Pei4
発音:リィゥ ベイ
英文:Liu Bei
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劉備
後漢
漢中王?徐州牧
出生161年
死去223年
字玄徳
諡号昭烈皇帝
廟号烈祖
主君献帝
氏族劉氏
父劉弘
妻呉皇后
子劉禅
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劉 備(りゅう び、延熹4年(161年) - 章武3年4月24日(223年6月10日))は、後漢末期から三国時代の武将、蜀漢の初代皇帝。字は玄徳(げんとく)。
黄巾の乱の鎮圧で功績を挙げ、その後は各地を転戦した。諸葛亮の天下三分の計に基づいて益州の地を得て勢力を築き、後漢の滅亡を受けて皇帝に即位して、蜀漢を建国した。その後の蜀、魏、呉による三国鼎立の時代を生じさせた。
明代の小説『三国志演義』では中心人物として登場する。
生涯成都武侯祠の劉備像
若き日、父は劉弘である。祖父は孝廉に推され、郎中となり、最終的には?州東郡范県の令となった。父も州郡の官吏を勤めたが、劉備がまだ幼い頃に死んだために土豪(現地の小豪族)の身分でありながら劉備の家は貧しくなり、母と共に筵を織って生計を立てていた。
幼い時に、家の前に生えている大きな桑の木を見て少年だった劉備は「大きくなったら天子の乗っている馬車に乗るんだ」と言った(天子の馬車は桑の木で出来ている)。その際、叔父の劉子敬
(劉弘の弟)が劉備の口を塞ぎ「滅多な事を言うでない、そのような事を口に出すだけで、我が一族は皆殺しの刑に遭うぞ」と叱責したという[5]。また、?郡の人李定は劉備の生家を見て「この家から貴人が出るだろう」と述べた[5]。敦煌文書によれば、この故事は劉備が7歳のときのものである[6]。熹平4年(175年)、15歳の時に母の言いつけで、従叔父の劉元起(劉雄の甥)の援助を得て、その子の劉徳然と共に、同郷で儒学者として有名な盧植の下で学問を学ぶようになる。この時の同窓に遼西の豪族の庶子の公孫?と同郷の高誘(中国語版)がおり、劉備は公孫?と高誘らに対して兄事しており大変仲が良かったという。同時に牽招とも交流があり、「刎頸の交わり」を誓った仲と伝わる[7]。柿沼陽平によれば、盧植は175年に九江郡太守となり、病で辞職し、すぐに廬江郡太守になり、その1年余りのち(ただし178年以前)に議郎となっており、しかも劉備が訪れたときに盧植は「もとの九江太守」と名乗っている事から、盧植には当時学生を直接教える時間などほとんどなく、劉備が師事した期閧ヘせいぜい数ヶ月あったにすぎない[8]。
中山の豪商・張世平と蘇双は、劉備を見て只者ではないと思い、大金を与えた。なお、張世平は馬商人であることやこの頃に公孫?が?県の県令を務めていたため、劉備は乗馬の趣味や公孫?とのつながりから張世平の面識を得たとする見方もある[9]。このおかげで劉備は資金を手にして仲間を集めることが出来た。 黄巾の乱が発生すると、関羽・張飛・簡雍・田豫らと共に義勇軍を結成し、校尉の鄒靖に従って、その名を挙げた。その功により中山国安熹県の尉に任命された[10]。 しかし、郡の督郵(監察官の職)が公務で安熹にやって来た際に面会を断られたのに腹を立ててそのまま押し入ると、縛りあげて杖で200回叩き、官の印綬を督郵の首にかけ、官を捨てて逃亡した[11]。
決起