劉備
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建安2年(197年)、楊奉韓暹は呂布と同盟を結び、袁術を大いに撃破し、徐州・揚州付近を荒らしていたため[14]、劉備は楊奉・韓暹を討ち取る[15]

建安3年(198年)春、呂布が攻めて来たので、劉備は曹操に援軍を要請した。曹操は夏侯惇を派遣したが、呂布の部下の高順に撃破され、張遼、高順らは半年以上も包囲を続け9月、遂に沛城は陥落し、劉備は逃走した(先主伝注引く『英雄記』)。劉備の妻子は再び捕虜となった。曹操は自ら出陣して劉備軍と合流すると共同して呂布を攻めて、呂布を生け捕りにした。曹操は呂布が将軍として有能なので殺すのを少しためらったが、劉備は「呂布がかつて丁原董卓を殺した事をお忘れか」と曹操を諌めた。これを聞いた呂布は激怒し、劉備に対して「奴こそが一番信用ならぬのだぞ!」[16]と罵倒したが、結局、呂布は絞首刑に処された(下?の戦い)。

劉備は曹操に連れられて曹操の根拠地で献帝のいる許昌へ入り、左将軍に任命された。ここでの劉備に対する曹操の歓待振りは、車を出す時には常に同じ車を使い、席に座る時には席を同格にするという異例のものであった。曹操と歓談していた時に曹操から「今、この天下に英雄と申せる者は、貴公とこのわしのみだ。本初如きでは不足よ」と評されている。かつて曹操配下の将軍であった徐翕・毛暉は呂布を担いで反乱を起こし、琅邪国相の臧覇に匿われていた。劉備は曹操の命を受け、臧覇に徐翕・毛暉の首を送るよう説得の使者を務めた。

この頃、宮中では献帝よりの密詔を受けた董承による曹操討伐計画が練られており、劉備はその同志に引き込まれた。その後、討伐計画が実行に移される前に朱霊路招らと共に袁術討伐に赴き、都から徐州に逃げ出す名分を得たという。袁術は袁紹と合流しようとしたが、劉備に道をふさがれたので、引き返し、やがて病死した[17]

袁術が死去したので、朱霊らは帰還したが、劉備は徐州に居残り、下?を根拠地とし、徐州刺史の車冑を殺した。下?の守備を関羽に任せて自らは小沛に移ると、多数の郡県が曹操に背いて劉備に味方した。曹操と敵対することになったので孫乾を派遣して袁紹と同盟し、曹操が派遣した劉岱王忠の両将を破った。劉備は劉岱らに向かって「お前達100人が来たとしても、私をどうする事もできぬ。曹操殿がご自身で来られるなら、どうなるかわからぬがね」と言った[18]

だが、劉備の裏切りに激怒した曹操自身が攻めて来ると敵し得ず、袁紹の元へと逃げ、関羽と夏侯博は劉備の妻子と共に曹操に囚われた。『三国志』蜀書先主伝の注に引く『魏書』によれば、劉備は攻めて来た曹操の指揮の旗を見ると、戦わずして逃走したという。袁紹の長子袁譚をかつて劉備が茂才(郷挙里選の科目の一つ)に推挙していたので、その縁で袁紹の元へ身を寄せて大いに歓待された。

袁紹が、曹操と官渡でにらみ合っている時に、汝南で元黄巾軍の劉辟が曹操に対して反旗を翻したので、劉備は袁紹の命を受けこれに合流して、数県を攻め取ると、多くの県が曹操に背いて劉備らに味方した。この時に関羽が曹操の元を去り、劉備のところへ帰ってきた。曹操は曹仁を派遣して、劉備を撃退した。その後、劉備は袁紹の命を受け、再び汝南に侵攻し、賊の?都らと手を結んだ。曹操は蔡陽を派遣し劉備らを攻撃させたが、蔡陽は敗北し討たれた。『三国志』趙儼伝によれば、このとき袁紹が豫州に兵を派遣し、豫州の諸郡に味方になるよう誘いをかけると、多くの郡がそれに応じたという。

袁紹が敗北したあと、自ら兵を率いて劉備討伐の構えをみせてきた曹操に対して衆寡敵せずと判断し、袁紹の元から離れ荊州劉表の元へと身を寄せた。
三顧の礼詳細は「三顧の礼」を参照

劉表から新野城(現在の河南省南陽市新野県)を与えられ、ここに駐屯して夏侯惇・于禁の軍を博望坡にて撃破した(博望坡の戦い)。しかし、劉備の元に集まる人が増えたことで、劉表は劉備を猜疑するようになった。また、劉表は外征に熱心ではなかったため、曹操の烏丸討伐の隙をついて許昌を襲撃するようにという劉備の進言は劉表に受け入れられなかった。

この時期のエピソードとして「ある宴席で、劉備が厠に行った後に涙を流して帰ってきた。どうしたのかと劉表が聞くと『私は若い頃から馬の鞍に乗っていたので髀(もも)の肉は全て落ちていました。しかし今、馬に乗らなくなったので髀に肉が付いてしまいました。既に年老いて、何の功業も挙げていないので、それが悲しくなったのです』と答えた」という話がある(裴松之が注に引く『九州春秋』より)。この事から髀肉之嘆(ひにくのたん)という故事成語が生まれた。

この頃(建安12年(207年))、諸葛亮三顧の礼にて迎え入れ、既に強大な勢力を築いている曹操に対抗するためには荊州と西の益州を手に入れて天下を三分割してその一つの主となり孫権と協力して曹操に立ち向かうべしという天下三分の計を説かれた。

劉表が没し、劉表の後を継いだ劉jが曹操に降伏した。諸葛亮は劉jを討って荊州を奪ってしまえと進言したが、劉備は「忍びない」と言って断り、逃亡した。

劉備が逃亡すると、劉j配下や周辺の住民10数万が付いてきた。そのためその歩みは非常に遅く、すぐにでも曹操軍に追いつかれそうであった。ある人が住民を捨てて早く行軍し江陵を確保するべきだと劉備に進言したが、「大事を成すには人をもって大本としなければならない。私についてきた人たちを捨てるのは忍びない」と言って住民と共に行軍を続けた。

その後曹操の軽騎兵隊に追いつかれて大打撃を受け、劉備の軍勢すら散り散りで妻子と離ればなれになり、2人の娘は曹純に捕らえられるという悲惨な状況だった。ただし、趙雲が乱戦のなか劉備の子・阿斗(後の劉禅)と甘夫人を救っている。

殿軍を務めた張飛の少数部隊が時間稼ぎをし、関羽の軍と合流する事で態勢を立て直し、さらに劉表の長子・劉gの軍と合流した(長坂の戦い)。

そして孫権陣営から様子見に派遣されてきた魯粛と面会し、諸葛亮を孫権の下に同盟の使者として派遣する。諸葛亮は孫権の説得に成功して同盟を結び、建安13年(208年)、赤壁の戦いにおいて曹操軍を破った。

赤壁の戦いの後、劉備は荊州南部を占拠し、劉gを上表して荊州刺史に立て、荊州の南の四郡(武陵長沙桂陽零陵)を併合し、徐州を追い出されて以来、初めて確固たる基盤を得た。その後程なくして劉gが死去すると、家臣たちに推戴されて荊州牧となった。関羽を盪寇将軍・襄陽太守、張飛を征虜将軍・宜都太守、廖立を長沙太守、?普を桂陽太守、向朗を?帰など4県の督に任命した。劉備が荊州を治めるようになると、潘濬を治中従事に任じた。後に劉備が蜀に入ると、彼を荊州に留めて州の事務の処理にあたらせた[19]

劉備の荊州牧就任後、劉備の勢力拡大を憂慮した孫権は、自らの妹(孫夫人)を劉備に娶わせ、さらに共同して西の蜀(益州)を獲ろうと申し出てきた。この提案に乗るべきだという意見もあったが、殷観は、孫権の先駆けとなって益州を攻撃するよりも、孫権への態度を曖昧にした上で、独力で益州を攻め取るべきだと意見した。劉備は殷観の提案に従い、「今は荊州を得たばかりであり、準備ができていない」と返答して断った。

孫権は聞き入れず、孫瑜に水軍を統率させ夏口に駐留させた。劉備は軍の通過を認めず、孫瑜に「お前が蜀を奪い取るつもりならば、私は髪を振り乱して山に入り[隠遁して]、天下に対して信義を失わぬようにするぞ」と言い、関羽を江陵に、張飛を?帰(しき)に駐屯させ、諸葛亮を南部に拠らせ、劉備自身は孱陵(せんりょう)に駐留した。孫権は劉備の意思を知ると、孫瑜を召還した。
天下三分

建安16年(211年)、蜀の主である劉璋五斗米道張魯に対抗するために、劉備に対し兵を益州に入れて欲しいと要請してきた。ところが、要請の使者である張松法正は既に劉璋を見限っており、劉備に対して蜀を獲ってしまうように勧めた。?統もこの話に乗るように進言し、劉備はこれを受け入れた。

関羽・張飛・諸葛亮らを留守に残し、劉備は自ら?統・黄忠・法正と数万人の兵を引き連れて、蜀へ赴いた。蜀に入ると劉璋によって歓待を受け、宴が開かれた。?統はこの機会に劉璋を捕らえて一気に蜀を手に入れるように進言したが、劉備は「今はその状況ではない(これは重大な事であるから、あわててはいけない[20]、他国に入ったばかりで恩愛や信義はまだあらわれていない、それはいかん[21])」と述べて退けた。張裕は劉璋の従事として劉備との会談に同席していたが、劉備は張裕の髭が豊かであったのを見てからかった。それに対し、張裕は髭のない劉備にあてつける形で「??君」(ひげの薄い人物の意)と言い返した。これにより、劉備は張裕に恨みを覚えることとなった。

劉璋は劉備に兵や戦車武器などを貸し、劉備軍は総勢3万人となった。その後、劉備は兵を率いて前線の葭萌へ駐屯し、この地で張魯を討伐するよりも住民たちの人心を収攬することに勤め、来たるべく蜀占領に向けて準備を整えた。建安17年(212年)、曹操が孫権を攻め、劉備に対して救援要請が来た。劉備たちはこれを兵力移動の隠れ蓑にして劉璋から付けられた監視役の高沛楊懐の二将を謀殺して、葭萌城を霍峻に守らせ、蜀の首都成都へと向けて侵攻を始めた(劉備の入蜀)。諸葛亮・張飛・趙雲らも長江をさかのぼり、益州の郡県を攻略した。関羽は本拠地の押さえとして引き続き荊州に残った。

劉備本軍は?城を占拠し、冷苞劉?張任ケ賢を破り、綿竹の総指揮官である李厳を降伏させるなど、初めは順調に進んでいたものの、劉循・張任が守る?城にて頑強な抵抗に合い、1年もの長い包囲戦を行なわざるを得なかった。この戦闘中に?統が流れ矢に当たって戦死した。劉備が?統に賛美と慨嘆の言葉をもらした際に、張存はかねてより?統を買っていなかったので、「?統は忠義を尽くして惜しむべき人物でありますが、しかし君子の道に反しておりました」と述べた。


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