創価学会
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12月 - 教学部の任用試験を開始[6]

12月20日 - 東京都新宿区信濃町25番地に新本部を建設する計画を聖教新聞紙上で発表するも後に建設用地を売却[注 5]

年末 - 男子部の人材育成グループ「水滸会」を発足[108]


1953年(昭和28年)

9月20日 - 東京都新宿区信濃町32番地にあった洋館を改築して新本部とする計画を聖教新聞紙上で発表する[SG 31]

10月 - 東京都新宿区信濃町に本部が完成[109]

11月 - 本部を信濃町に移転[6]


1954年(昭和29年)

3月 - 参謀室設置

10月 - 大石寺に青年部1万人が登山し、出陣式[6]

11月 - 文化部設置

12月 - 渉外部設置。部長には池田が任命。


1955年(昭和30年)

3月 - 北海道小樽市において、日蓮宗と創価学会との法論が行われる。「#小樽問答」も参照

4月 - 政界進出を目指し、第3回統一地方選挙に文化部員を出馬[106]。当時はまだ政党組織がなかったため、無所属で創価学会が推薦するという形を取った。


1956年(昭和31年)

1月 - 戸田が宗門64世法主水谷日昇の隠退表明を拝して「先代牧口先生当時から学会は猊座の事には一切関知せぬ大精神で通して来たし、今後もこの精神で一貫する。これを破る者はたとえ大幹部といえども即座に除名する」との談話を発表[SG 32]。同日の寸鉄では「(創価学会は日蓮正宗の)法主を宗祖大聖人としておつかえ申上げる、どなたが法主様でも一貫不変、これ信者の大精神。」と評した[SG 33]。「日昇#略歴」も参照

7月 - 第4回参議院議員通常選挙に6名の候補者を擁立。大阪支部長の白木義一郎ら3名が当選。

12月 - 法務省刑事局は「その信条に基づく行動に暴力的な動向が顕著」「多数の青年行動隊を軍隊の組織区分に準じて編成し、この折伏の実践に当たらせている」として創価学会を新興右翼団体と認定した[110](後に認定解除)


1957年(昭和32年)

4月 - 参議院大阪府選挙区補欠選挙で一部の会員が選挙違反を起こす。会員の供述から小泉理事長、池田渉外部長ら合わせて47人が逮捕される。裁判で実行犯とされた末端会員らが有罪判決を受ける中、首謀者とされた池田・小泉は無罪判決を受ける。詳細は「大阪事件 (創価学会)」を参照

6月30日 - 学生部結成[111]

9月 - 横浜市・三ツ沢グラウンドで戸田が「原水爆禁止宣言」を発表。

12月 - 本部幹部会で75万世帯の折伏達成を発表。また、戸田会長は欠席したものの、「永遠の三指針」を発表[SG 34][注 6]


1958年(昭和33年)

3月 - 日蓮正宗の総本山大石寺の大講堂が完成。学会では「大講堂落慶記念総登山」と呼んだ。延べ20万人余の会員が参加。詳細は「戸田城聖#大講堂竣工と突然の死」を参照

3月16日 - 「広宣流布の模擬試験」が大石寺大講堂で行われ、青年部員6,000人が参加、戸田が広宣流布の一切の後事を青年部全体に託した[SG 35]。「大講堂 (大石寺)#概要」も参照

4月 - 1日に戸田が体調を崩し駿河台日本大学病院に緊急入院[SG 36]。2日に死去[SG 37]

5月 - 戸田の四十九日法要を機に開かれた臨時幹部会において戸田の七回忌まで後継者となる新会長を立てないことを決定、戸田幾、細井日達立会いの下、池田、石田、和泉、柏原らが誓約書に署名[SG 38]

6月30日 ? 本部幹部会で「総務」ポストの新設が発表され、池田が就任。


1959年(昭和34年)

6月 - 池田が青年部参謀室長を辞任し、総務職に専念。
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