創価学会
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「お尋ね」文章の内容は、池田が僧侶を批判した、四箇格言を否定した、親鸞を好意的に評価した、外道(仏教以外)の歌である『歓喜の歌』を評価した、などとして批判する内容で[123]、これに対し、学会側は「お尋ね」文書に対する「お伺い」文書を送付し、日蓮正宗側が自分たちを誹謗・中傷しているとして回答を拒否した[143][SG 46][注 13]

これを受け、日蓮正宗は規約を改正し、1984年1月に再任されていた池田の法華講総講頭の役職を解くことにした[143]。1991年、創価学会は『聖教新聞』紙上等において日蓮正宗へ反論を行う[143]。同年11月、日蓮正宗は「創価学会」と「創価学会インタナショナル」(SGI)を破門[143][注 14]。創価学会側はこの破門以降、日蓮正宗を「日顕宗」(「日顕宗(日蓮正宗)」の表記もあり)と呼称し、批判している。

一方で、田原総一郎は、この対立の背景として、日蓮正宗の法主である日顕が先祖の墓を他宗の禅寺に建立していたことが判明したり、異性やカネにまつわる僧侶の醜聞が伝えられたりするなど、多くの学会員が宗門に対して不満を持つようになったのではないか、と言及している。[144]

創価学会と日蓮正宗の決別について、佐藤優は、世界広宣流布の観点から、創価学会がこれ以上、「宗門のくびきの下に置かれることは非現実的」[145]とし、聖ウルスラ学院(カトリックミッションスクール)理事長の梶田叡一は、日蓮正宗による破門の内実は、「権威的で形骸化した宗門によってそれまで散々蔑まれてきた学会員の魂が、ようやく解放された[注 15]」としている[146]
シアトル事件

1992年(平成4年)6月、『創価新報』・『聖教新聞』に「日顕が1963年(昭和38年)に法務で米国ワシントン州シアトルに出張した際に、現地の売春婦と料金トラブルを起こして警察に通報され、身柄を拘束された」、「現地在住の学会員、ヒロエ・クロウが保釈手続きを行った」として、日顕を痛烈に批判する記事が掲載された。日蓮正宗側はそのような事実はまったく存在しないと否定し[注 16]、日米両国で訴訟が行われた。また、この報道は創価学会や日顕と敵対する正信会・顕正会の機関紙でも報じられた。
偽造写真事件

破門後の1992年(平成4年)11月、学会は機関紙『創価新報』に、日顕が芸者と戯れる写真を掲載。日蓮正宗との訴訟に発展した。地裁の判決では、学会側が編集過程において写真をトリミングカット等したことを偽造と認定し、賠償請求を命じた。[147]しかし、学会側が控訴した高裁では、学会側による写真偽造を改めて認定したものの、原告に日顕の氏名が無い事を理由に原告が求めた損害賠償は認められなかった。[148]日蓮正宗側は上告するも、最高裁で棄却された。詳細は「偽造写真事件#訴訟へ」を参照
コーヒーカップ裁判

1992年(平成4年)、神奈川県川崎市中原区にある日蓮正宗持経寺に息子の遺骨を預けていた創価学会員夫婦が、同伴した数人の学会幹部とともに息子の遺骨を受け取りに訪れた際、本堂で夫が遺骨を受け取り退出。しかし、5分後に再び本堂を訪れ遺骨骨壷ではなくコーヒーカップに入っていたと主張した。その後の裁判では、数々の証言から創価学会員は敗訴し主張は退けられた。詳細は「コーヒーカップ裁判」を参照
日蓮正宗住職交通事故死

1994年(平成6年)7月、北海道内で日蓮正宗住職の運転する自動車と学会員の運転する自動車が正面衝突する交通事故が起き、住職が死亡、学会員が重傷を負った。現場検証で住職の全面過失と認定されたが、週刊新潮など一部週刊誌が交通事故は創価学会によって仕組まれたものとする内容を掲載。後に事故の当事者である学会員が週刊新潮を提訴、最高裁は週刊新潮の敗訴を言い渡した。詳細は「日蓮正宗住職交通事故死事件」を参照
池田大作に対する民事訴訟

1996年(平成8年)、自らの金銭借款が原因で北海道創価学会の幹部を解任された女性が、池田大作を相手取って起こした訴訟。


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