剣闘士
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ローマのコロッセウムと隣接する大養成所(ルードゥス・マーグヌス)の遺跡。

80年、都市ローマに5万人収容のフラウィウス円形闘技場(コロッセウム)が完成した。ティトゥス帝(在位79年 - 81年)はこのコロッセウムの落成を期して大規模な闘技会を催し、野獣狩り、剣闘士試合、模擬海戦が100日にわたって催され、一日だけで5千頭の野獣が殺されたという[29][30]トラヤヌス帝(在位98年 - 117年)は1万人もの剣闘士を集めた闘技会を開催し、コンモドゥス帝(在位180年 - 192年)は自らが剣闘士になり735回も戦っている[31]。ローマ世界全体では186の円形闘技場が確認されており、さらに86の未確認の闘技場があったとされている[32][33]

ドミティアヌス帝(在位81年 - 96年)の時代以降、都市ローマでの闘技会の興行は役人の管理官(プロークラートル)が行うようになり、大養成所(ルードゥス・マーグヌス)、ガリア養成所、ダキア養成所そして早朝養成所[注 1](マートゥーティーヌス:闘獣士養成所)の四つの帝国養成所が開設され、ローマの大養成所は地下通路でコロッセウムに繋がっていた[25]

闘技会は長らくローマで最も人気のある娯楽だったが、キリスト教会はこれに批判的だった。380年にキリスト教がローマ帝国の国教になると教会は剣闘士や訓練士をはじめ闘技会にかかわる全ての者は洗礼を受ける資格がないと定めた[31]。それでも闘技会は規模を縮小しながらも続けられたが、人気が落ち、訓練生も集まらなくなった[31]。404年に闘技場で試合を止めるよう呼びかけた修道士テレマクス(英語版)が観衆の投石を受けて死亡する事件が起き、西ローマ皇帝ホノリウス(在位395年 - 423年)は闘技場を閉鎖させた[35]。これ以降、闘技会はほとんど催されなくなったが、440年頃まではまだ行われたとされている[2]。523年にイタリアを支配する東ゴート王テオドリックが闘技会を禁止する布告を出しており、この時期でもまだ行われていたようであり、681年に第3コンスタンティノポリス公会議とユスティニアヌス勅令で公式に禁止され闘技会は消滅した[2][36]

剣闘士興行の衰退と消滅はキリスト教の影響とするのが通説だが、これとは別に3世紀以降に剣闘士試合の敗者が全員殺害されるようになったことやモザイク画から審判の姿が消えて、多彩だった剣闘士のスタイルも人気のあった追撃闘士と網闘士ばかりになった現象に着目し、刹那的な流血の興奮を追求するあまりに試合が過激化・単純化した結果として観客に剣闘士の技を魅せる娯楽としての余裕がなくなり、単なる死ぬか生きるかの殺し合いになってしまったことが人気を失い消滅に至った原因ではないかとする説も提起されている[37]
徴募・養成・社会的地位剣闘士養成所跡。ポンペイ遺跡

剣闘士となる者の大半は戦争捕虜や奴隷市場で買い集められた者たちで、反抗的なために主人に売り飛ばされた奴隷が多かった[38]。何らかの理由により自由民が志願するケースもあり、研究者の試算によると剣闘士10人中2人が自由民であった[39][注 2]。また、犯罪者も剣闘士として闘技場に送られた[41]。剣闘士は勝ち続ければ富と名声を得ることもできたが、一方でローマ人たちからは「堕落した者」「野蛮人」「恥ずべき者」(インファーミス)と見なされており、その社会的地位は低く売春婦と同類と見なされ、奴隷の中でも最下等の者たちとされ蔑まれた[42][43]

徴募された奴隷や自由民たちは興行師(ラニスタ)が所有する剣闘士団(ファミリア・グラディアートリア)に所属し、その剣闘士養成所(ルドゥス)で長期にわたって訓練を施されてから闘技会に出場した。興行師は勝ち残り自由を得た元剣闘士で、財を成すこともできたが、売春宿の主人と同様の卑業と見なされ社会的地位は低かった[44][45]

剣闘士養成所では闘技を指導する元剣闘士の訓練士(ドクトレ)や教練士(マギステル)、高度な技術を持つ医師そしてマッサージ師(ウーンクトル)などが働き、剣闘士の養成を行った[46][47]。訓練士によって、剣闘士たちは行進の仕方から武器の扱い、足技、突き刺した剣でどうやって動脈を見付けるかなどを指導され、徹底的にしごかれることになる[48]。木製の剣を手に練習し、藁人形を相手に殴りかかる練習や訓練生同士の練習試合で経験を積む。訓練中の剣闘士は闘技会以外での怪我と反乱を防止するため木製の武器を用いており、本物の武器は与えられなかった[49][50]

訓練に耐えられずに自殺する者もおり、訓練についてこられない者たちには過酷な罰が与えられた[51][52]。帝政初期の政治家で詩人のセネカは苦痛に耐えきれず自殺した者の事例について言及しており、あるゲルマン人の闘獣士は便所の汚物洗浄用の海綿の棒を喉に突っ込んで命を絶ち、またある闘獣士は馬車で移送中に居眠りをしたふりをして車輪に頭を突っ込んだという[53]。ローマ人の見世物として仲間同士で戦わされることを嫌い、互いに喉を絞めあって絶命した蛮族の一団、そして模擬海戦の最中にこの見世物の愚かさを罵って自殺した蛮族の戦士の話も伝わる[54]

訓練生の宿舎は厳重に監視され、夜は鍵を掛けるなどして閉じ込められたが[55]、食事については滋養になるものを与え、古代ローマでは大麦を食べると脂肪を増やして出血を防ぐと考えられており、これを主食とさせるなど配慮していた[56][57]。ただし当時のローマ市民の主食は小麦であり、大麦は主に家畜の飼料用であり、剣闘士は侮蔑的に「大麦食い」(ホルデアリウス)と呼ばれた[58][注 3]網闘士(左)と追撃闘士(右)のモザイク画。2-3世紀

基礎的な訓練を終えた新人剣闘士は、俊敏さ、強さ、体格、熟練度に応じてトラキア闘士、サムニウム闘士、網闘士、魚兜闘士、追撃闘士といった様々なスタイルの剣闘士に分けられた(#種類の節を参照)。また、訓練についていけない落伍者は闘獣士になった。剣闘士は自身が所属する剣闘士養成所の興行師の手配で各地の闘技場へ巡業に出た。剣闘士は消耗品ではなく、巡業で金を稼ぐための重要な資産でもあるため、興行師は剣闘士を頻繁に闘技会に出すようなことはしなかった。戦いは公正に、そして観客が楽しめるようにマッチングされた。

剣闘士が埋葬された墓地を発掘し、少なくとも68体の骨の分析を行った結果、骨ミネラル値が異常に高く、強い筋肉と骨が作られたことが分かった。同時に食事の内容を分析した結果、多くの剣闘士が菜食主義の食事を摂っていたことが分かった[59]

かつては試合が始まれば剣闘士たちはどちらか一方が死ぬまで闘わされたと考えられていたが、実際には必ずしも死ぬまで闘わされたわけではなく、負けた剣闘士であっても観客を十分に満足させる試合をしたと見なされれば助命されることも多かった[60]。そして無事生き残り、引退した剣闘士の中には、興行師や訓練士として剣闘士を鍛える側にまわる者もいた。生き残り、引退した者にはその証として木剣(ルディス)があたえられる[61]。この一方で、犯罪者の剣闘士は訓練を受けることもなく獄中から闘技会に引き出され、防具なしで戦い、その大半は闘技場で命を落とした[62][41]

剣闘士には「訓練士」(または「剣術指南役」)[注 4]、「ルディアリウス」[注 5]、「パロス」、「ウェテラヌス」[注 6]そして試合未経験の「訓練生」の順に称号があり、このうち同一武装集団の序列であるパロスは「筆頭剣闘士」(プリームス・パールス)、「次席剣闘士」と続き、第三から第八剣闘士までの存在が確認されている[64]


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