剣術
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応仁の乱時、東軍の総大将だった細川勝元は15歳の時に、逆上した遊び友達に太刀で切りつけられそうになったが兵法(剣術)を修練していたため助かったという逸話がある[3]

本来は様々な武具や体術を併用する武術に含まれており、文献によって「兵法」が剣術を指し示すのは、小太刀術柔術など接近して戦う際に用いる技法との区別が明確でなかったためとされる。また戦場で用いる技法であるため甲冑を着用して動きに制限のある状態を基本とする「介者剣法」が一般的であった。なお江戸期に武士が習得すべき武芸として示された武芸十八般において、「剣術」と「居合・抜刀術」は分けられており、当時の認識では鞘から抜いて構えた状態で開始するのが剣術、座った状態や鞘に収まった状態から開始するのが居合・抜刀術と認識されていたようである。

様々な技術が考案され習得のために稽古も確立された。剣術では一連の動作をまとめたの習得(形稽古)から開始するのが一般的である。なお実際の戦場での斬り合いは形通りではなく、袈裟(鎖骨頚動脈)に斬り込んだり、手足などを狙うことが主流とされ、示現流の「立木打ち」のような実践を考慮した稽古もあった。

甲冑を着用せず平時の服装で剣のみを用いる「素肌剣術」は、戦乱が無くなった江戸時代以降に発達した。この時代からの剣術流派では、互いに平服を着て打刀小太刀のみを持った状態を想定したが多い。ただし体術を併伝する流派も多く、完全に剣のみとなったのは武道化した剣道の登場以降とされる。また実用的な剣術の他に、試し斬りのための「試刀術」も考案された。

剣術関係の人物についてはCategory:剣客を参照。
歴史
古代歌川国貞「教竜閣」(1852年)。歌舞伎の役者絵。芳流閣

古代の日本において青銅製の武器の製作が開始されたのは、出土品から見て早くても紀元1世紀以降とされているが、この時代の日本にはまだ文字がなかったため、この時代の剣術については伝わっておらず、その有無や詳細は不明である。

製の剣の使用は軍事的優位の源泉であった。しかし国産の鉄製刀剣が盛んになったのは7世紀以降であって、推古天皇が「太刀ならば句礼(中国の)の真鋤(刀剣の意味)」と詠っているように、古代は大陸からの輸入品が主流であった。刀鍛冶である「鍛冶戸」が朝廷によって各地に置かれたのは8世紀以降である。これ以降、日本国内でも直刀蕨手刀などの多種多様な鉄の刀が作られるようになっていった。

古墳時代中期、常陸国鹿島に関東七流(東国七流)という、日本初の剣術流派(鹿島神流(鹿島古流・鹿島中古流)など)が生まれた[4]。7人の神官が古くから伝わる剣術を東国を中心に広めた。次の柱、天照大神神宮皇大神宮(内宮)、神明神社)、建御雷神鹿島神宮)、経津主神香取神宮)、タケミナカタ諏訪大社)、ヤマトタケル建部大社大鳥大社)、神仏習合からは春日権現春日大社)、八幡大菩薩宇佐神宮)、妙見菩薩千葉神社)などは武と剣の神として現代でも道場に祀られる。

蝦夷は蕨手刀を用いたが騎射を主体に戦ったとされ、剣術に関しては文献に記述が無く不明である。
平安時代

平安時代になると、日本国内での製鉄技術は大陸と遜色ないレベルにまで達した。さらに、従来の真っ直ぐな剣から、湾曲して人を斬りやすく、また上での戦いに適した形に進化し、やがて現在まで伝わる日本刀の基本形ともいえる太刀が登場する。

平安時代中期に武家が台頭すると、太刀のが長く伸び、「片手持ち」から「両手持ち」へと変わり、(打刀に移り変わるものの)現在にいたる。平時の戦闘において、刀で攻防し敵を殺傷するための技術、すなわち剣術は、この頃には確立された。

平安時代後期には、京都鞍馬山京八流が生まれる。源義経が鞍馬で修行中、鬼一法眼という天狗に剣を学んだという伝説がある。鬼一法眼が鞍馬寺の8人の僧に教えた剣法が京八流といわれている。

関東七流とともに多くの流派の母体となる。関東七流は神官、京八流はが担い手であった。

武士は騎射を「弓馬の道」として重視し、合戦も騎射による射撃戦が中心であった。なお当時の兜は緩衝材がなく、兜をしっかり固定する着用法ではなかったため、太刀で相手の兜を殴りつけ兜を脱落させてから斬りつけたり、脳震盪を起こした隙に組み付いて短刀でとどめを刺すなど、接近戦になった場合に使われた[5]。源平時代には『平家物語』や『平治物語』に剣術の技名のような記述が見られるものの、本来は下馬した際に使う補助的な武装や、日常における喧嘩や強盗に使用する護身用という認識が強かったとされ[6]、純粋な戦闘技術としての剣術は重要視されなかった[4]

平安末期に起こった内乱、治承・寿永の乱では戦闘が大規模化し動員数が増加した。以前の合戦は正規の武士身分による騎射が中心だったが、この内乱では正規の武士身分とその従者だけでは戦闘を賄いきれなくなり、動員対象が騎射に習熟していない武士や本来は非武士階級である村落領主クラスにまでに拡大したとされる[7]。馬術や弓術に不慣れな者が多く参加したことから、これまでの合戦ではルール違反とされていた、相手の馬への攻撃や馬での体当たりが行われるようになり、太刀の馬上使用も増加したという[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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