剣術
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以前の合戦は正規の武士身分による騎射が中心だったが、この内乱では正規の武士身分とその従者だけでは戦闘を賄いきれなくなり、動員対象が騎射に習熟していない武士や本来は非武士階級である村落領主クラスにまでに拡大したとされる[7]。馬術や弓術に不慣れな者が多く参加したことから、これまでの合戦ではルール違反とされていた、相手の馬への攻撃や馬での体当たりが行われるようになり、太刀の馬上使用も増加したという[8]
鎌倉時代

鎌倉時代武士国家の中心勢力としての地位を確立するにいたって、日本は大陸の儒教文化圏からは異なった、武芸と為政者がその習得を行うことに上位の価値を認める文化の形成を開始した。この時代の武士も平安時代と同じく「弓馬の道」が重視され、馬術と弓術の鍛錬が行われたが、剣術はあまり重要なものではなかった。

しかし、太刀の形状は実用性を考慮し、先幅と元幅の差が少なくなり平肉が付くなど[9]、堅牢な武具に対抗できるように変化しているため、打撃武器として太刀の重要度が増しつつあったと考えられる。やがて鎌倉幕府が衰退し始めると、元寇まで皆無だった薙刀や太刀を主武器とする「打物騎兵」が出現するようになる。
南北朝時代

南北朝時代は、「笑切・袈裟切・雷切・車切・片手打・払切・撫切・下切・立割・梨子切・竹割」等が『太平記』をはじめ諸文献に見えており、縦・横・斜めの基本形に止まっている。南北朝期のの重装備では動作も敏捷性を欠くため、技術よりも武器のリーチや重い武器を持ち続ける体力が重要であった。

この時代では平安・鎌倉時代と比べ白兵戦が増加し、甲冑の隙間を埋める防具が発達したため非装甲部分を狙うのが難しくなった。そのため、太刀や薙刀などによる(兜を装備した)頭部への打撃が盛んに行われるようになり、兜の内側に浮張(うけばり)と呼ばれる緩衝材を設け、兜をしっかり固定するような着用法に変化した[10]。薙刀や刀を「打物」と呼称するのはこのためである。

同時にこれまでは騎乗での主力武器は弓であり、太刀や薙刀などの武器は徒歩で使用することが推奨されていたが、この時代では騎乗状態でも薙刀や長大化した太刀を主力武器として用い、逆に歩兵が弓矢を多用するという逆転現象が起きた[11]
室町・戦国時代現代における介者剣術の演武

室町時代から戦国時代にかけて、平時でも武士や僧侶以外の民衆も武装するようになり、脇差打刀大小を同時携帯することが身分を問わず流行し始める[12]

当時の人々は階層問わず激怒しやすい者が多く些細なことでも刃傷沙汰に及んだが、警察機構は未発達な自力救済の世界であったことから復讐の連鎖を止める手段が少なく、民間人同士の喧嘩から室町幕府の重臣同士の合戦に発展するケースもあったという[13]

戦時では軽装備の足軽雑兵が戦闘の中心を占め、敏捷な動作が可能となったことにより、刀剣やを用いる白兵戦が生じるようになった。剣術もより細かな技法が考案され、流派も登場するなど本格的な技術となっていった。

ただし、あくまでも剣術は、戦場での総合的な戦闘技術である「兵法」の一種であった。戦場において刀剣は(長大なものを別とすれば)主武器ではなく、鉄砲弓矢などの飛び道具を第一とし、白兵戦においては、をはじめ薙刀長巻野太刀大太刀など、長いリーチを持つ刃物を優先して使用した。多くの戦国大名が巨身の「力士」を雇い入れることに熱心であったのは、彼らでなければ振り回せない長刀を装備した上で、力士隊として編成して身辺警護や特殊兵力に用いるためであった。

甲冑を装着した武者同士の太刀による戦闘方法は、当然、巨人がただ太刀を振り回せばよいものとは異なり、介者剣術(もしくは介者剣法)と呼ばれ、深く腰を落とした姿勢から目・首・脇の下・金的・内腿・手首といった、鎧の隙間となっている部位を狙うような戦法であった。甲冑武者同士の戦闘は最終的には組み討ちによる決着に至ることが多く、その技法が組討術であり、後の柔術の源流の1つとなった。現代武道の柔道合気道は、その柔術から派生したものである。一方、下級兵士同士の場合は鎧で守られていない手足を斬りつけることが推奨されていた。

なお、宮本武蔵は『五輪書』の「地之巻」で、従来は弓や槍を含む[14]武士としての諸芸全般(「武家の法」)を指していた「兵法」から「剣術一通の事」のみを切り出して「常陸国鹿島・香取の社人共、明神の伝へとして流々をたてて、国々を廻り、人につたゆる事ちかき比の義也」(正保2年(1645年))と記し、鹿島・香取の社人たちが剣術のみを兵法として全国をわたり伝えるようになったのは古いことではないことと述べている。

永禄9年(1566年)五月吉日、上泉伊勢守信綱柳生宗厳新陰流相伝自筆伝書に、「上古の流有り、中古に念流新當流、亦復陰流有り。」と三大流派(兵法三大源流)を記している。しかし、この三流も卒然として成立したのではなく、先行の技法を体験した上に工夫考案されたものである[15]

新當流の祖の飯篠家直は『関八州古戦録』によると「鹿伏兎刑部少輔より、刺撃の法を伝授された」となっており、永禄年中「新當流」から「天真正伝香取神道流」を名乗る[16][17]

陰流の祖の愛洲久忠が誰から兵法を学んだかは明らかではないが、愛洲久忠の時代には、関東では既に飯篠家直天真正伝神道流が盛行しており、三河国高橋庄には中条長秀が百年も前に中条流を流布させていた。また15世紀はじめには、念流の祖念和尚(慈恩、相馬四郎義元)の門人中、京六人といわれる人たちが京都奈良を中心に兵法を広めていたと考えられる[18]

この時代の伝書として確認出来るのは、盛嶽文書(大分県佐伯市)として伝わっている永禄8年(1565年)に藤原廣豊が盛嶽氏に発行した新当流兵法書[19]、『武備誌』に掲載された影目録の陰流、また天正年間に外他氏より御子神氏へ出された外他流の目録などがある。

中条流念流新當流(神道流)、陰流は、その後、多くの支流を誕生させることとなる[4]
安土桃山時代

国内再統一の後、兵農分離刀狩が行われた。これ以前に、武士でない庶民が平素から帯刀していた習慣があったことは、日本人と剣術との関わりの深さを認識する上で重要である。

戦場ではなく日常での戦いが前提とされた剣術が主流になったのは、この頃からである。
江戸時代蟇肌撓(ひきはだしない)という袋竹刀を使用した柳生新陰流の演武。袋竹刀は上泉信綱が考案したと伝えられる。(厳島神社で開催される日本古武道協会主催の日本古武道厳島神社演武大会にて)二天一流幕末に外国人カメラマンF・ベアトによって撮影された剣術の稽古。現代の剣道とほぼ同じ道具を使用している。

江戸時代に剣術は大きく発展し、流派は700を超える[20]甲冑着用が前提の介者剣術から、平服・平時の偶発的な個人戦を前提とする素肌剣術へと変わった。それまでの補助的な武器ではなく、打刀と脇差の大小のみでの戦いを前提としているのが特徴ある。

死傷者の生じる木刀での立ち合い(試合)は幕府によって禁止され[21]、約束動作の形稽古が中心となり、のちに竹刀防具が発明され、安全性を確保しながら技を試し合うようになった。

武士が剣術道場を開いたことで非武士階級である、農民町人が剣術を学ぶようになったことも特筆すべきことである。
殺人刀と活人剣

「殺人刀(せつにんとう)」と「活人剣(かつにんけん)」[注 1]とは、元来はの『無門関』・『碧巖録』などの公案での用語である。

上泉信綱1566年(永禄9年)2月肥後国丸目蔵人佐に与えた印可が「殺人刀・活人剣」とあり、また一刀流の本目録14に「まんじ・殺人刀・活人剣」という名前が見られるように、武術に対して、他の禅の用語と同じく大きな影響をあたえた。


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