剛勇のビョルン
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彼は9世紀、855年から858年の間にはいたとされ[1]、スウェーデンのムンソ王朝の最初の支配者であったと言われている。18世紀初頭、ムンソ島の墳丘墓は、好古家によってビョルン・イェルンシダス・ホグまたはビョルン・イロンシッドの墳丘墓であると主張されてきた[2] [3]

中世の資料では、エリク・ビョルンソン(英語版)やハウギのビョルン(英語版)などのビョルン・イロンシッドの息子や孫への言及が見られる[4]。イロンシッドの男系の子孫は1060年ごろまでスウェーデンを支配していたと考えられている。
フランク人の資料でのビョルン

"ベルノ"(英語版)(Bjornのラテン語形)は強力なヴァイキングの首長であり、海軍の司令官だった。ベルノは『サンベルタン年代記』や『フォントネル年代記』(英語版)と言った当時の資料に登場している。ベルノが最初に言及されたのは855年の夏である。ベルノの出自を詳細に記した最古の文書はジュミエージュのギョーム(英語版)のノルマン史(1070年頃)である。ギョームによれば、デンマーク人は、王の権威を高めるために王の若い息子に王土を離れることを要求する習慣があり、ラグナル・ロズブロークが王座に着いた後で、王はビョルンに王国を離れることを命じた。ビョルンはかなりの艦隊を率いてデンマークを離れ、西フランク王国を荒らし始めた[5]。当時の年代記によると、ビョルンはシグトリックと呼ばれる別のバイキングと協力して855年にセーヌ川を遡上し、そこからシグトリックの部隊とともに内陸部を襲撃している。この年に連合軍はシャンパーニュで西フランク王国のシャルル2世に敗れたが、決定的な敗北ではなかった[6]。シグトリックは翌年に撤退したが、ビョルンは別のヴァイキングの軍勢から加勢を受け、セーヌ川地域から追い払われることはなかった。ビョルンと部下たちはいわゆるギヴォルドの墓で、856年から857年にかけてパリを略奪する拠点となる冬の宿舎を設営した[7]。ビョルンはルーアンのオワセル(英語版)に要塞を建設し、拠点として何年にも渡って維持した[8]。確かにビョルンは858年にヴァルベリー(英語版)でシャルル2世に忠誠を誓ったが、実際に誓約を守ったかどうかは定かではない。シャルル王は最終的に、セーヌ側の手にえないヴァイキング達に、手持ちの兵力全てを投入して対決することを決意し、7月にオワセルを包囲した。海賊達が要塞をしっかり守ったため、包囲は失敗に終わった[9]。さらに、シャルルの弟である東フランク王国ルートヴィヒ2世が彼の領地に侵入し、多く家臣がシャルルの元を去った[10]。こうして、9月には包囲が解除されることとなった。[11]

ビョルンがヴァルベリーでシャルルと会った後は、同時代の資料には彼の名前は見られない。しかしながら、セーヌ側のヴァイキング戦士はその後数年襲撃を続け、861年には再びパリで略奪を働いている。絶望したシャルル2世は、ソンム地方で活動していた別のヴァイキングの首長、ヴェランドを使って、オイセルでセーヌ川のヴァイキングを攻撃しようとした。しかし、2つのヴァイキングの軍勢が取引して軍を統合したため、この計画は裏目に出てしまった[12]。861年から翌年にかけてセーヌ川下流に野営していたこのノース人達は、再び別れ別れになった。ヴェランドはキリスト教徒になることに同意して王室に仕え、セーヌ川のヴァイキング達は海に出た。彼らの一部はブルターニュの支配者とフランク王国の伯爵達との戦いに参戦した[13]
地中海への遠征

いくつものフランク、ノルマン、アラブ、スカンジナビア、アイルランドの資料には、859年から861年にかけてハスタイン(英語版)、剛勇のビョルンとおそらく兄弟の1人が共同で指揮をとった、地中海への大規模なヴァイキングの襲撃が記述されている。イベリア半島沿岸を襲撃し、ジブラルタルを戦いながら通過した後で、ノース人達は南フランスを略奪し、ピサの街を占領したイタリアに上陸する前に船団はその地で越冬した[14]。この勝利と、地中海遠征中の地中海周辺(シチリアと北アフリカを含む)でのその他の勝利とでいっぱいになって、ヴァイキング達は嵐で40隻を失ったと記録されている。彼らはジブラルタル海峡に戻り、メディナ=シドニアの沿岸でアンダルスの奇襲を受けて2隻を焼失し、20隻の船しか残らなかった。船団の生き残りは862年にフランス海域に戻ってきた。後年のジュミエージュのギョームの年代記によれば、剛勇のビョルンがこの遠征の指導者だった。11世紀初頭の『アイルランドの断片的な年代記(英語版)』には、兄弟によってノルウェーから追放され、オークニー諸島に止まっていた首長のラグナル・マク・アルブダンの2人の息子がこの事業を指揮したと記されている[15]

ジュミエージュのギョームは、ビョルンを Lotbroci regis filio (ロズブローク王の息子)であるBier Costae ferreae (イロンシッド=剛勇)と呼んでいる[16]。ギョームの地中海遠征に関する記述では、ビョルンの育ての親であるハスタイン(英語版)が中心となっている。2人のヴァイキングはフランスで多くの(ほとんど成功した)襲撃を行った。その後、ハステインはビョルンを新しいローマ皇帝にすることを思い付き、養い子とともに地中海へのヴァイキングの大規模な襲撃を行った。内陸部を進み、当時ローマだと思っていたルーニの町に到着したが、町の壁を破ることができなかった。町に入るために策略が練られた:ハスタインは司教のもとに使者を送り、死の床で改心し、キリスト教の秘跡を受けるとともに、教会内の聖なる場所に埋葬してほしいと伝えた。担架に乗せられた彼は、少数の儀仗兵とともに礼拝堂に運び込まれた後、担架から飛び降りて、狼狽する司教たちを驚かせた。その後、バイキング隊は町の門に向かって進撃し、門はすぐに開かれて残りの軍隊が入ってきた。ルーニがローマではないことを知ったビョルンとハスタインは、この街を調査したいと思ったが、ローマ人が防衛のために十分な準備をしていることを聞いて気が変わった。西ヨーロッパに戻った後、2人は別れた。ビョルンはイギリスの海岸で難破し、かろうじて生き延びた。その後、フリースラント、ギョームによればそこで死んだとのことである[17]。この記述にはいくつかの歴史的な課題がある。ハステインはビョルンよりも後に当時の資料に登場しており、彼の養父となるためには、彼が死んだときには80代くらいになっていたはずである。同時代のヴァイキングのロロやノルウェーのハーラル1世王が同じくらいの寿命だったことを考えれば、不可能というわけではない。また、ルーニはサラセン人によって略奪されたことが知られている[18]
『ラグナル・ロズブロークの伝説』と『ラグナルの息子たちの物語』

スカンジナビア王ラグナル・ロズブロークの息子たちであるビョルンとその兄弟の物語は、中世を通して異なるバージョンで何度も語られた。『ラグナルの息子たちの物語(英語版)』(古ノルド語: Ragnarssona tattr)は、伝説的な主題と伝統的な北欧の口承史を組み合わせた14世紀ごろのアイスランドの古代のサガである。ここではビョルンはラグナルとアスラウグの息子であり[19][20]、その兄弟はウィトセルク(英語版)、骨無しのイーヴァル、蛇の目のシーヴァルド(英語版)である。この物語では、ビョルンの異母兄弟であるエリクとアグナルについても語られている。

このサガでは、ラグナルをスウェーデンの大部分、そしておそらくデンマークの大君主として描いている。ラグナル存命の間、ビョルンと兄弟たちはスウェーデンを離れシェラン島、レイドゴットランド(英語版)(ここではユトランドをさす)、ゴットランドエーランド島およびその他の小さな島々を征服するべくスウェーデンを離れた。彼らはデンマークのシェラン島にあるライレ(英語版)に定住し、骨無しのイーヴァルを指導者とした。

その後、ラグナルの息子のエリクとアグナルはメーラレン湖に漕ぎ出し、ラグナルに隷属するスウェーデン国王エイステイン(英語版)に、ラグナルの息子たちに服従するよう求めるメッセージを送った。さらに、エリクはエイステインの娘ボーグヒルドを妻として望んだ。エイステインはまずはスウェーデンの首長たちと協議したいと申し出た。首長たちは申し出を拒否し、反抗的な息子たちへの攻撃を命じた。戦いが続き、エリクとアグナルはスウェーデン軍に圧倒されて、アグナルは戦死し、エリクは捕虜となった。

エイステインはエリクにウプサラ・エド(英語版)を望むままに与え、アグナルの命の贖い(英語版)としてボーグヒルドを与えると申し出た。エリクは、このような敗北の後では、自分の死の日を選ぶことしかできないと宣言した。そして、死者の上に立つ槍に突き刺されることを願い、その願いは叶えられた。シェラン島では、タフル(英語版)をしていたビョルン、アスラウグ、ウィトセルクの3人が動揺し、大軍を引き連れてスウェーデンに向けて出航した。


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