剛勇のビョルン
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しかし、2つのヴァイキングの軍勢が取引して軍を統合したため、この計画は裏目に出てしまった[12]。861年から翌年にかけてセーヌ川下流に野営していたこのノース人達は、再び別れ別れになった。ヴェランドはキリスト教徒になることに同意して王室に仕え、セーヌ川のヴァイキング達は海に出た。彼らの一部はブルターニュの支配者とフランク王国の伯爵達との戦いに参戦した[13]
地中海への遠征

いくつものフランク、ノルマン、アラブ、スカンジナビア、アイルランドの資料には、859年から861年にかけてハスタイン(英語版)、剛勇のビョルンとおそらく兄弟の1人が共同で指揮をとった、地中海への大規模なヴァイキングの襲撃が記述されている。イベリア半島沿岸を襲撃し、ジブラルタルを戦いながら通過した後で、ノース人達は南フランスを略奪し、ピサの街を占領したイタリアに上陸する前に船団はその地で越冬した[14]。この勝利と、地中海遠征中の地中海周辺(シチリアと北アフリカを含む)でのその他の勝利とでいっぱいになって、ヴァイキング達は嵐で40隻を失ったと記録されている。彼らはジブラルタル海峡に戻り、メディナ=シドニアの沿岸でアンダルスの奇襲を受けて2隻を焼失し、20隻の船しか残らなかった。船団の生き残りは862年にフランス海域に戻ってきた。後年のジュミエージュのギョームの年代記によれば、剛勇のビョルンがこの遠征の指導者だった。11世紀初頭の『アイルランドの断片的な年代記(英語版)』には、兄弟によってノルウェーから追放され、オークニー諸島に止まっていた首長のラグナル・マク・アルブダンの2人の息子がこの事業を指揮したと記されている[15]

ジュミエージュのギョームは、ビョルンを Lotbroci regis filio (ロズブローク王の息子)であるBier Costae ferreae (イロンシッド=剛勇)と呼んでいる[16]。ギョームの地中海遠征に関する記述では、ビョルンの育ての親であるハスタイン(英語版)が中心となっている。2人のヴァイキングはフランスで多くの(ほとんど成功した)襲撃を行った。その後、ハステインはビョルンを新しいローマ皇帝にすることを思い付き、養い子とともに地中海へのヴァイキングの大規模な襲撃を行った。内陸部を進み、当時ローマだと思っていたルーニの町に到着したが、町の壁を破ることができなかった。町に入るために策略が練られた:ハスタインは司教のもとに使者を送り、死の床で改心し、キリスト教の秘跡を受けるとともに、教会内の聖なる場所に埋葬してほしいと伝えた。担架に乗せられた彼は、少数の儀仗兵とともに礼拝堂に運び込まれた後、担架から飛び降りて、狼狽する司教たちを驚かせた。その後、バイキング隊は町の門に向かって進撃し、門はすぐに開かれて残りの軍隊が入ってきた。ルーニがローマではないことを知ったビョルンとハスタインは、この街を調査したいと思ったが、ローマ人が防衛のために十分な準備をしていることを聞いて気が変わった。西ヨーロッパに戻った後、2人は別れた。ビョルンはイギリスの海岸で難破し、かろうじて生き延びた。その後、フリースラント、ギョームによればそこで死んだとのことである[17]。この記述にはいくつかの歴史的な課題がある。ハステインはビョルンよりも後に当時の資料に登場しており、彼の養父となるためには、彼が死んだときには80代くらいになっていたはずである。同時代のヴァイキングのロロやノルウェーのハーラル1世王が同じくらいの寿命だったことを考えれば、不可能というわけではない。また、ルーニはサラセン人によって略奪されたことが知られている[18]
『ラグナル・ロズブロークの伝説』と『ラグナルの息子たちの物語』

スカンジナビア王ラグナル・ロズブロークの息子たちであるビョルンとその兄弟の物語は、中世を通して異なるバージョンで何度も語られた。『ラグナルの息子たちの物語(英語版)』(古ノルド語: Ragnarssona tattr)は、伝説的な主題と伝統的な北欧の口承史を組み合わせた14世紀ごろのアイスランドの古代のサガである。ここではビョルンはラグナルとアスラウグの息子であり[19][20]、その兄弟はウィトセルク(英語版)、骨無しのイーヴァル、蛇の目のシーヴァルド(英語版)である。この物語では、ビョルンの異母兄弟であるエリクとアグナルについても語られている。

このサガでは、ラグナルをスウェーデンの大部分、そしておそらくデンマークの大君主として描いている。ラグナル存命の間、ビョルンと兄弟たちはスウェーデンを離れシェラン島、レイドゴットランド(英語版)(ここではユトランドをさす)、ゴットランドエーランド島およびその他の小さな島々を征服するべくスウェーデンを離れた。彼らはデンマークのシェラン島にあるライレ(英語版)に定住し、骨無しのイーヴァルを指導者とした。

その後、ラグナルの息子のエリクとアグナルはメーラレン湖に漕ぎ出し、ラグナルに隷属するスウェーデン国王エイステイン(英語版)に、ラグナルの息子たちに服従するよう求めるメッセージを送った。さらに、エリクはエイステインの娘ボーグヒルドを妻として望んだ。エイステインはまずはスウェーデンの首長たちと協議したいと申し出た。首長たちは申し出を拒否し、反抗的な息子たちへの攻撃を命じた。戦いが続き、エリクとアグナルはスウェーデン軍に圧倒されて、アグナルは戦死し、エリクは捕虜となった。

エイステインはエリクにウプサラ・エド(英語版)を望むままに与え、アグナルの命の贖い(英語版)としてボーグヒルドを与えると申し出た。エリクは、このような敗北の後では、自分の死の日を選ぶことしかできないと宣言した。そして、死者の上に立つ槍に突き刺されることを願い、その願いは叶えられた。シェラン島では、タフル(英語版)をしていたビョルン、アスラウグ、ウィトセルクの3人が動揺し、大軍を引き連れてスウェーデンに向けて出航した。アスラウグは騎兵を率いて国土を横断した。彼らは大戦闘でエイステインを倒した。

このサガによると、彼らの父ラグナルは、無謀な侵略を試みた後に、イングランドでエラ王(英語版)に捕らえられて殺害された。ビョルンと兄弟達は復讐を求めてエラを攻撃したが撃退された。イーヴァルはイングランド王を容易には倒せないことを悟り、和議を申し出た。牡牛の皮で覆えるだけの土地を求め、2度とエラに対して戦争を仕掛けないことを誓った。そして、イーヴァルは牡牛の皮を細長く切り、自分のものとなる大きな要塞(古いサガではヨークだが、新しいサガではロンドンとなっている)を囲うことができた。イーヴァルはイングランドで人気者となり、兄弟に再び攻撃するように依頼した。イヴァルはイングランドで人気者になり、兄弟に再び攻撃を依頼した。戦いの間、イーヴァルは兄弟に味方し、多くのイングランドの首長とその民もイーヴァルに忠誠を誓っていた。エラ王は捕らえられ、兄弟は復讐のために彼を血のワシに処した。

その後、ビョルンと兄弟達はイタリアのルーニに着くまでにイングランド、ノルマンディー、フランス、ロンバルディアを略奪した。彼らがスカンジナビアに戻った際には、ビョルン・イロンシッドがウプサラとスウェーデンを支配できるように王国を分割した[21]
その他の資料

伝説的なデンマークの年代記サクソ・グラマティクスである『デンマーク人の事績』(1200年頃)は、ビョルン・イロンシッドをスウェーデン王として言及した最初の文献である。サクソによると、ラグナル・ロズブロークは最近のし上がったスウェーデン人の支配者ソルレと争っていた。そこで、ログナルは息子のビョルン、フリドレイフ、ラドバルドを伴ってスウェーデン国土に侵入した。戦闘が始まる前に、相手方も戦いで解決することに合意した。ラグナルと3人の息子達は、両軍の前で名高い王者スタルカドと7人の息子達と相見えた。「ビョルンは自身は傷つくことなくて多くの敵を打ち倒し、鉄のような脇腹の強さから永遠の呼び名(すなわち鉄の脇腹Ironside)を得た」。ラグナルと息子達が8人の敵を倒した後に、その軍勢はソルレとその軍隊に襲いかかり、全滅させた。そして、ラグナルは「ビョルンに、その際立った勇気と奉仕のためにスウェーデンの領有権を送った」。その後、ラグナルの別の息子のウッベ(英語版)は、母方の祖父エスビョルンと結託してラグナルを謀殺した。エスビョルンはスウェーデンのビョルンに使者を送り、反乱の支持を集めようとしたが、ビョルンは耳を貸さなかった。その代わり使者を縛り首にし、一行の残りはスウェーデン人に殺害された。その直後、エスビョルンは海戦で戦死し、ウッベは英雄的な抵抗の末に捕らえられた。やがた、ラグナルはビョルンをノルウェーの摂政に任命し、スウェーデンはもう一人の息子、エリク・ウェザーハット(英語版)に移譲した。ラグナルの死後、ラグナルと兄弟達はイングランドのエラ王(英語版)を攻撃し、打ち倒した。その後、ビョルンはスウェーデンの王国に帰ったが、デンマーク人がラグナルの息子達の支配に反抗して蜂起したので、デンマークに介入した。1700隻の船団を率いて、兄弟とともにシュレスヴィヒで反乱軍を制圧した。これが『デンマーク人の事績』におけるビョルン・イロンシッドについて最後の記述である[22]

13世紀の『ヘルヴォルとヘイズレク王のサガ』ではエイステイン・ベリ(英語版)は『ラグナル・ロズブロークのサガ』で語られているようにビョルンと兄弟達に殺され、彼らがスウェーデン全土を征服したと伝えている。ラグナルが死ぬと、ビョルン・イロンシッドがスウェーデンを相続した。ビョルンにはレヴィル(英語版)とエリク・ビョルンソン(英語版)がおり、次のスウェーデン王となった[4]。『赤毛のエイリークのサガ』によると、ビョルンにはソルフィン・カルルセフニの祖先となるアスレイク(英語版)と言う名の息子がいた。

アングロ・サクソンとアイルランドの資料によると、865年以降のデンマークのイングランド侵攻はイングヴァル(すなわちイーヴァル)(英語版)、ウッベ(英語版)、ハールヴダンの3兄弟が率いていたとされており、アイルランドの『アイルランドの諸国との戦争(英語版)』から判断するとラグナル(Ragnall、ないしRagnarか似た名前)の息子達だったとされている[23]


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