前秦
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

先代次代
?
東晋

前燕
前涼
代 (五胡十六国)後涼
西秦
後秦
北魏
西燕
後燕

前秦(ぜんしん、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Qianqin、 351年 - 394年)は、中国五胡十六国時代?族によって建てられた国。国号は単に秦だが、この秦を滅ぼして起こった西秦後秦があるために前秦と呼んで区別する。

一時は華北を平定し中華統一を目指したが、南下して東晋に大敗。敗戦後に華北で諸国の自立と離反が相次ぎ滅亡した。
歴史
建国と苻健・苻生の時代建国時の前秦(ピンク)前秦(ピンク)と前燕

五胡の一つである?族は現在の中国の甘粛省陝西省に存在した民族で、五胡十六国時代には長安の西の武都郡略陽郡を中心に、楊氏・呂氏・苻氏らの豪族を中心として台頭した[4]

?の族長苻洪は初め前趙劉淵らに従っていたが、前趙が後趙に滅ぼされると後趙に従った。しかし後趙の石虎の死後に冉閔の反乱が起きると石遵の配下から離れて自立した[4]。苻洪は長安方面への復帰を目論むが、350年3月に石虎の旧臣だった軍師の麻秋毒殺された[5]

その後を継いだ三男の苻健は一時東晋に服属したが、当時長安で東晋の雍州刺史を自称して割拠していた杜洪を破って西進し、351年1月に東晋から独立して天王・大単于を称して皇始と建元し、長安を首都と定めて前秦を建国した[4][6]。苻健は352年1月に皇帝に即位したが、当時の前秦はまだ小国であった[6]354年2月、東晋の征西大将軍桓温北伐を受けて苦戦するが6月に撃退し、これを機に陝西一帯に勢力を張るようになった[6]。以後、前秦は後趙滅亡後の華北を鮮卑慕容部の建国した前燕と東西を二分する勢力へと成長した[4]

355年6月の苻健の死により、第2代皇帝となった三男の苻生356年2月に前涼を服属させ、357年5月には族の族長姚襄姚萇兄弟と戦い、姚襄を殺害して姚萇を服属させるなど勢力を拡大した[6]。しかし、苻生は残忍・残虐な行為が多かったので、民心は離反し、357年6月に苻健の甥で自らの従弟である苻法苻堅兄弟のクーデターにより弑されて、苻堅が第3代皇帝として即位した[4][6]
華北の統一と全盛期全盛期の前秦 (ピンク)

第3代皇帝として即位した苻堅は大秦天王と称した[7]。苻堅は明敏で博学多才な人物であり、漢人宰相の王猛を重用して内政の充実を図り、初代からの方針である重商主義から重農主義に転換して豪商を抑え、長安や関中の灌漑施設の復興や匈奴鮮卑等の移民を展開して農業基盤を整備した[7]。一方で官僚機構の整備、法制の制定に努めて中央集権化を図った[7]360年代半ばまで前秦は内政の充実や周辺諸国の外圧、さらに匈奴や羌の反乱や皇族間の内紛が相次いで勢力拡大は進まなかったが、368年までにこれらを全て片付けると対外政策に進んで外征を行い、370年11月に前燕[8]371年4月に前仇池を滅ぼして遼東・中原を獲得した[9]376年8月には前涼を滅ぼして涼州を平定し、さらに12月にはを滅ぼした[8][9]。これにより前秦は五胡十六国時代で唯一となる華北統一を達成した[10][9]

この前秦の勢威に高句麗新羅などは朝貢して服属し、華北の社会は安定し、人口は2300万人に達して前秦は全盛期を迎えた[9]
南下の失敗と事実上の滅亡

華北統一に大きく貢献した王猛は375年に死去した[11]。王猛は生前から苻堅に対して東晋遠征を反対していたが、天下統一を目指す苻堅はこれを聞き入れずに378年2月に庶長子苻丕に命じて東晋領の襄陽を攻撃させて379年2月に落とさせたが、この時は東晋の謝玄の反撃を受けて建康攻撃には失敗した[12]

383年8月、苻堅は南北統一を目指して群臣の反対を押し切り、総勢100万(90万とも)と号する東晋討伐の軍を起こした[8][13][14]。前秦軍は苻融の軍が寿春を落とすなど優勢だったが、漢族将軍でかつての東晋の梁州刺史朱序が「堅、敗れたり!」と叫んで苻堅を裏切り、さらに東晋軍の謝玄・謝石らに動揺した隙を突かれて大敗した[14]。苻堅は流れ矢に当たって負傷しながらも弟の苻融と共に鮮卑族の慕容垂の軍勢によって守られて敗走したが、苻融は戦死した(?水の戦い[14]

苻堅は12月に長安に帰還したが、この敗戦による前秦の支配力の動揺は激しかった[15]。かつての前燕皇族であった慕容泓慕容沖華陰で関中の鮮卑を糾合して長安に迫った[14]。苻堅は慕容沖を破り、西燕を建国した慕容泓は6月に家臣に暗殺されるなどしてひとまずは沈静化した[16]。だが384年4月には慕容泓に敗北して罪に問われる事を恐れた姚萇が渭北の馬牧場(現在の陝西省咸陽市興平市の東)に逃亡して自立し、後秦を建国した[17]。またそれより少し前の1月には慕容垂中山で自立して後燕を建国するなどした[18]。苻堅はこれらの勢力を鎮定するために各地に軍を派遣したが前秦軍は各地で敗北し、またこの混乱で長安の経済は破壊されて深刻な食糧不足に陥った[15]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:51 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef