前田吟
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母は乳呑み児だった信明を抱えて路頭に迷い、親戚筋の子どものいない老夫婦に謝礼をつけて[4]、生後100日で前田家の養子に入れた[3][4]。物心がつき始めたとき、親が年寄りなのはおかしいなと薄々感じ始めた[4]。4歳の時に養母を亡くし[3][4][5]、12歳の時に養父を亡くす[3][4][5]。その後はふたたび親戚をたらいまわしにされ[3][4]、電気も通っていない村で、ランプで生活した[4][5]。実母がお金を出してくれて[4]、中学卒業後は山口県立防府高等学校に進学するが[5]、実母の再婚で送金が止まり[4]、1年で中退する[3][5]

15歳で高校中退後は「有名になってやろう」と大阪に出て、ボクサー歌手俳優を目指す[4]。ひとまず家具屋に丁稚丁稚[4]黒澤明監督の『野良犬』や『七人の侍』を見て感動したことにより役者を志し、演劇研究所「シャトル・アントンス」に通う[4]。後にコメディNo.1を結成する前田五郎は同期[4]。この学校は潰れるが、講師をしていた倉橋仙太郎の俳優教室に入る[4]。それと並行して高校卒業の資格を取るために通信教育の高校に入学。結婚式場・天王殿で下働きや、天王寺公園ポン引きなどをして食い繋ぐ[4]。家具屋時代に、当時大阪市淀川区十三で新婚生活を送っていた大村崑兵庫県尼崎への引っ越しを手伝ったことがある。

1962年、通信教育による高校卒業資格取得後、本格的に役者を目指して上京する。東京芸術座研究所第1期生となり、1963年4月、劇団俳優座養成所15期生となる[3][4][6]。同期に地井武男原田芳雄夏八木勲小野武彦村井国夫林隆三高橋長英秋野太作浜畑賢吉竜崎勝栗原小巻太地喜和子赤座美代子三田和代ら、錚々たるメンバーが並ぶ、花の15期の一人であった[3][4]新宿歌声喫茶「灯(ともしび)」でボーイ[4]、工事現場、印刷工、サンドイッチマンなどの労働に励みながら役者になるチャンスをうかがった。1964年、2学年上の女性と結婚。

デビューから1966年までは本名の前田信明で活動し、翌1967年より現在の芸名へ改名。

俳優仲間からは「吟ちゃん」、後輩の役者達やタレント陣からは「吟さん」の愛称で呼ばれる。

1964年、『判決』第1シリーズ・第105話「沖縄の子」(NET)でデビュー。1965年、『純愛物語』(朝日放送)に主役として出演する。

1968年、現在の芸名に改名直後に出演した『ドレイ工場』で誠実な工員役を演じる。この演技が山田洋次監督の目にとまり、1969年、山田監督の映画『男はつらいよ』に寅次郎の妹さくらに惚れる印刷工・諏訪博役として出演した。この役柄に前田の人柄がベストマッチし、さくらと結婚した博としてシリーズ50作全てに出演した。1977年には森谷司郎監督『八甲田山』で斉藤伍長を演じる。

橋田壽賀子石井ふく子関連作品には多数出演しており、特に1980年放送の『』(TBS系)での宮寺順一役は前田の代表作になった。


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