1944年2月21日(月曜日)に山口県防府市にて生まれる[3][4]。父親は同盟通信(現在の共同通信)山口支局に勤務する記者、父親は京都通信の記者[4]、母親はタイピストだった[4]。実父は1945年8月6日の広島市への原爆投下の日に広島市にいて消息を絶つ[4]。母は乳呑み児だった信明を抱えて路頭に迷い、親戚筋の子どものいない老夫婦に謝礼をつけて[4]、生後100日で前田家の養子に入れた[3][4]。物心がつき始めたとき、親が年寄りなのはおかしいなと薄々感じ始めた[4]。4歳の時に養母を亡くし[3][4][5]、12歳の時に養父を亡くす[3][4][5]。その後はふたたび親戚をたらいまわしにされ[3][4]、電気も通っていない村で、ランプで生活した[4][5]。実母がお金を出してくれて[4]、中学卒業後は山口県立防府高等学校に進学するが[5]、実母の再婚で送金が止まり[4]、1年で中退する[3][5]。
15歳で高校中退後は「有名になってやろう」と大阪に出て、ボクサーか歌手か俳優を目指す[4]。ひとまず家具屋に丁稚丁稚[4]。黒澤明監督の『野良犬』や『七人の侍』を見て感動したことにより役者を志し、演劇研究所「シャトル・アントンス」に通う[4]。後にコメディNo.1を結成する前田五郎は同期[4]。この学校は潰れるが、講師をしていた倉橋仙太郎の俳優教室に入る[4]。それと並行して高校卒業の資格を取るために通信教育の高校に入学。結婚式場・天王殿で下働きや、天王寺公園でポン引きなどをして食い繋ぐ[4]。家具屋時代に、当時大阪市淀川区十三で新婚生活を送っていた大村崑の兵庫県尼崎への引っ越しを手伝ったことがある。
1962年、通信教育による高校卒業資格取得後、本格的に役者を目指して上京する。東京芸術座研究所第1期生となり、1963年4月、劇団俳優座養成所15期生となる[3][4][6]。同期に地井武男、原田芳雄、夏八木勲、小野武彦、村井国夫、林隆三、高橋長英、秋野太作、浜畑賢吉、竜崎勝、栗原小巻、太地喜和子、赤座美代子、三田和代ら、錚々たるメンバーが並ぶ、花の15期の一人であった[3][4]。新宿の歌声喫茶「灯(ともしび)」でボーイや[4]、工事現場、印刷工、サンドイッチマンなどの労働に励みながら役者になるチャンスをうかがった。1964年、2学年上の女性と結婚。
デビューから1966年までは本名の前田信明で活動し、翌1967年より現在の芸名へ改名。