吉徳も父と同じく藩政改革に取り組むため、足軽出身の大槻伝蔵を重用して改革を行なった(後の巷説では男色相手の寵臣ともいわれる)。この頃、加賀藩では綱紀の改革により家格はさらに上昇し(御三家に準ずる待遇)、国内においても藩政は安定していたが、100万石の大藩ともなると何事においても出費が大きかったので、綱紀の治世末期から吉徳が家督を継いだ頃には、藩財政の動揺は隠せないものとなっていた。
そこで伝蔵主導のもと、質素倹約、公費の節減、米相場に対する新投機方法の設置、新しい税の制定などの改革が行われた。この財政改革によって、確かに加賀藩の財政はある程度立ち直り、一部は成功した。この功績によって、伝蔵に対する吉徳の信任はさらに厚くなり、大槻はさらなる改革を目指して藩政を主導してゆくようになった。しかしこれに対して、改革による質素倹約などの制限や、成り上がり者に過ぎない伝蔵に対する嫉妬などが元で、藩内における保守派や門閥層の間に不満が集まるようになった。
延享2年(1745年)、吉徳は56歳で死去し、跡を嫡男の宗辰が継いだ。その翌年、伝蔵は前田直躬ら保守派によって失脚させられた。そして吉徳と伝蔵の改革が、皮肉にも後の加賀騒動の遠因となった。
吉徳は自身の死の5か月前に生まれた治脩まで10人の男子を残したが、宗辰(長男)は翌年に早世し、以後重熙(次男)、重靖(五男)、重教(七男)、治脩(十男)と都合5代にわたり、兄弟で相次いで家督が相続された。残る5人は早世した。 ※日付=旧暦 元文6年(1741年)の武鑑掲載の主要家臣は以下の通り。
官歴
1702年(元禄15)2月、藩世嗣となり、利興と名乗る。6月9日、元服し、将軍徳川綱吉の偏諱を受けて吉治と名乗る。正四位下左近衛権少将兼若狭守に叙任。
1723年(享保8)5月6日、藩主となる。6月15日、加賀守に遷任する。左近衛権少将如元。8月18日、左近衛権中将に転任する。加賀守如元。
1740年(元文5)11月1日、参議に補任。11月16日、吉徳と改める。
系譜
父:前田綱紀(1643年 - 1724年)
母:町、預玄院 - 三田村氏
正室:松姫
側室:浄珠院 以与(江戸浪人・上坂喜信の娘)
長男:宗辰(1725年 - 1747年) - 加賀藩6代藩主
側室:心鏡院 民(江戸芝神明宮神主・鏑木政幸の娘)
次男:重熙(1729年 - 1753年) - 加賀藩7代藩主
三男:稚光院(1731年 - 1731年)
側室:清月院 瀧(江戸浪人・鈴木道一妹)
長女:喜代姫(1732年 - 1750年) - 広島藩主浅野宗恒室
側室:真如院 貞(江戸芝神明宮神主・鏑木政幸の娘)
次女:総姫(1733年 - 1758年) - 富山藩主前田利幸室
四男:利和(1735年 - 1759年)
三女:楊姫(1737年 - 1762年) - 秋田藩主佐竹義真室
五女:益姫(1739年 - 1739年)
六男:八十五郎(1741年 - 1761年)
側室:善良院 縫(江戸浪人・奥泉金兵衛の妹)
五男:重靖(1735年 - 1753年) - 加賀藩8代藩主
側室:蘭(江戸浪人・木村小左衛門の娘)
六女:橘姫(1739年 - 1740年)
側室:寿清院 夏(津藩藤堂家家臣・園田秀顕の娘)
七女:暢姫(1740年 - 1798年) - 姫路藩嗣子酒井忠宜室、死別後離縁により帰家
八女:保姫(1743年 - 1743年)
十男:治脩(1745年 - 1810年) - 加賀藩10代藩主
側室:実成院 流瀬(家臣・辻道直の娘)
七男:重教(1741年 - 1786年) - 加賀藩9代藩主
側室:智仙院 勢(江戸医者・畠山玉隆の娘のち家臣大音厚固に嫁す)
九男:利実(1743年 - 1766年)
生母未詳
四女:幻智院(1737夭折)
八男:(1743年死産)
養子
女子:弓姫(大聖寺藩主前田利章長女) - 盛岡藩主南部利雄室
家臣
【八家】横山大和守・本多安房守・前田土佐守・前田対馬守・奥村助左衛門・奥村丹三郎・村井主膳・長新十郎
【その他年寄】前田大學・横山蔵人・玉井市正・本多頼母・西尾隼人・前田図書
【嫡子附役】前田将監・品川主殿・菊池十六郎・青木新兵衛
【城使】中村助右衛門・井上二太夫・古屋傳右衛門・後藤瀬兵衛・河村貞右衛門
【次男亀次郎(後の重煕)附】土肥庄太夫
参考文献
若林喜三郎 『前田綱紀』(吉川弘文館人物叢書、1986年新装版) ISBN 4-642-05058-2
関連作品
テレビドラマ
暴れん坊将軍III第38話「さまよう鬼女の面」(1988年放送)のキーパーソンとして登場する。