大坂の陣の終了後の5月13日、家康から与えられた感状では「阿波・讃岐・伊予・土佐の四国」を恩賞として与えると提示されたが、利常は固辞してそれまでの加賀(白山麓18村は幕府領)・能登・越中の3か国の安堵を望んで認められた(『国初遺文』)。固辞した理由は転封を危険視したとも、経済的な理由(越中七金山と呼ばれた鉱山経営が軌道に乗り始めた)とも推測されている[11]。
元和2年(1616年)4月、家康が死の床に就いた際、枕元に来た利常に対して「お点前を殺すようにたびたび将軍(秀忠)に申し出たが、将軍はこれに同意せず、何らの手も打たなかった。それゆえ我らに対する恩義は少しも感じなくてよいが、将軍の厚恩を肝に銘じよ」と述べたという(『懐恵夜話』)。
寛永3年(1626年)、従三位権中納言に叙され加賀中納言とよばれるようになる。
寛永6年(1629年)、諱を利光から利常と改める。元和9年(1623年)には秀忠の嫡男で利常の義弟でもある徳川家光が将軍となっており、その偏諱でもある「光」は家光から与えられたわけではないため避けたものと思われる。代わりに、嫡男の利高がその字を家光から与えられて光高と改名している。
寛永8年(1631年)、大御所・秀忠の病中に金沢城を補修したり[注釈 3]、家臣の子弟で優秀な者を選んで小姓にしたり、大坂の役の際に勲功があったとして追賞したり、他国より船舶を盛んに購入したりした。このため、秀忠の病中に乗じて利常に対する謀反の嫌疑をかけられるも(「寛永の危機」)[13]、自ら光高とともに江戸に下り、家老の横山長知の子の康玄の奔走もあって懸命に弁明した結果、からくも疑いを解くことができた[12]。
その後、光高の正室に家光の養女大姫(水戸藩主徳川頼房の娘)を迎えている。寛永16年(1639年)6月20日に家督を光高に譲るとともに、次男の前田利次に富山藩10万石を、三男の前田利治に大聖寺藩7万石を分封し、22万5,000石を自らの養老領として小松に隠居した[14][2][13]。この隠居の際、家光は制止したが利常は聞かずに隠居届を出して隠居したという[13]。支藩の創設と近江の飛び地により、加賀藩は公称高102万5千石(5代綱紀宛の朱印状)となる。 寛永19年(1642年)、四女の富姫が八条宮智忠親王妃となり、幕府に批判的な後水尾院とも深く親交した[13]。ちなみに院の中宮・徳川和子は珠姫の妹に当たるため、利常と院は義兄弟(相婿)関係にあった[13]。磯田道史の解説によれば、もともと信長、秀吉、利家と連なる美意識には金をめでる金箔の文化があるという。それに加えて八条宮別業(桂離宮)の造営に尽力し京風文化の移入にも努め、織豊期、安土桃山の再興という意味で「加賀ルネサンス」と呼ばれる華麗な金沢文化
復帰と綱紀の補佐
正保2年(1645年)4月、光高が急死し、跡を継いだ綱紀が3歳とまだ幼かったことにより、6月に将軍・家光からの命令で綱紀の後見人として藩政を補佐した[13][15]。利常は治世の間、常に徳川将軍家の強い警戒に晒されながらも巧みにかわして、120万石に及ぶ家領を保った。内政において優れた治績を上げ、治水や農政事業(十村制、改作法)などを行い、「政治は一加賀、二土佐」と讃えられるほどの盤石の態勢を築いた。また御細工所を設立するなど、美術・工芸・芸能などの産業や文化を積極的に保護・奨励した[13]。
一方で、綱紀の養育のために戦国時代の生き残りを綱紀の近くに侍らせて、尚武の気風を吹き込んだ。また、綱紀の正室には将軍・家光の信頼厚い庶弟で幕府の重鎮であった保科正之の娘・摩須姫を迎えるなど、徳川家との関係改善に努めた[16]。
法名は微妙院殿一峯克巌大居士。墓所は石川県金沢市野田町の野田山墓地。なお、死後にはその戒名から微妙公と呼ばれる場合もある。 ※ 日付 = 旧暦(1909年(明治42年)を除く)
官職および位階等の履歴
慶長6年(1601年)5月11日 - 元服し、利光と名乗る。従四位下・侍従兼筑前守に叙任。
慶長10年(1605年)4月8日 - 松平の苗字を与えられる。
慶長10年(1605年)6月28日 - 藩主となる。
慶長19年(1614年)9月 - 右近衛権少将に転任。筑前守如元。
元和元年(1615年)閏6月19日 - 参議補任。月日不詳にて参議辞職。
寛永3年(1626年)8月19日 - 従三位・権中納言に昇叙転任。
寛永6年(1629年)4月13日 - 肥前守に遷任。
寛永16年(1639年)6月20日 - 隠居。
1909年(明治42)9月11日 - 贈・従二位。
人物・逸話ウィキソースに微妙公御夜話の原文「微妙院(前田利常)様は、太閤の家風を、殊の外御誉め遊され候、何かと御座候へば、早御引言には、太閤の事を仰せられ、信長の事は、少しも御意御座なく候、只太閤の御軍法を、御感遊され候、甲陽軍鑑などは、曽て御覧遊されず候、常々太平記・徒然草など御覧、又は猿のほうなどと申す草紙を御覧遊され候、東鑑仮名書に御写させ置き、毎度御覧遊され候」があります。ウィキソースに三壺聞書
人物像
父・利家の特長を受け継いだ立派な体格の持ち主であり、その点が数多くいる利家の子供たちから利長の後継に選ばれる決め手となったという。徳川家康の遺言などから、家康は利常にかつてのライバルだった利家を見出して警戒していたとされ[17]、幕府からは「底の知れぬ人」と警戒されていたとされる[18]。
金工師の後藤顕乗(下後藤)や後藤覚乗(上後藤)、蒔絵師の五十嵐道甫や清水九兵衛など、京都や江戸から優れた一流の名工たちを高禄で召し抱え、藩内の美術工芸の振興に努めた。
かぶき者として
幕府の警戒をかわすためうつけを装っていたとも、「かぶき者」の気質とも言われるが、人を食ったような奇行の逸話が多い。もっとも、父・利家や従兄弟の利益のように、前田家は養子縁組で血のつながりがない者を含め、かぶき者のエピソードに事欠かない家柄でもある。
幕府からの警戒を避けるために、故意に鼻毛を伸ばして暗愚を装ったという[12]。家臣が見かねて手鏡を差し出すと「これは加州・能州・越中の三国を守り、お前たちを安泰に暮らさせるための鼻毛じゃぞ」と言ったと伝わる(井原西鶴『日本永代蔵』、原谷一郎『百万石物語』)[13]。
病で江戸城出仕をしばらく休んだ後、酒井忠勝に皮肉を言われ、「疝気でここが痛くてかなわぬ故」と満座の殿中で陰嚢を晒して弁解した。
江戸城中に「小便禁止。違反者には黄金一枚の罰金」との札が立てられると、ことさらにその立て札に向かって立ち小便をし、「大名が黄金惜しさに小便を我慢するものか」と言い放った。