前田利家
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永禄元年(1558年)、通称を又左衛門と改めた[9]。同年、尾張上四郡を支配していた守護代岩倉城主・織田信安(岩倉織田氏)の息子・織田信賢との争いである浮野の戦いにも従軍し功積を挙げた。前述の異名で呼ばれ始めたのも、この戦いの頃からという[10]。また、この戦いの後、永禄初年ごろに新設された赤と黒の母衣衆(ほろしゅう:信長の親衛隊的存在の直属精鋭部隊)の赤母衣衆の筆頭に抜擢され、多くの与力を添えられた上に、100貫の加増を受ける。同年、従妹であるまつ(芳春院)を室に迎えて、すぐに長女・を儲ける。

永禄2年(1559年)、利家は信長の寵愛を受けた同朋衆拾阿弥と諍いを起こし、拾阿弥を斬殺したまま出奔した。この事件は俗に、「笄(こうがい)斬り」と呼ばれている。当初、この罪での成敗は避けられなかったが、柴田勝家森可成らの信長への取り成しにより、出仕停止処分に減罰され、浪人暮らしをする。この間、熱田神宮社家松岡家の庇護を受ける[11]

永禄3年(1560年)、利家は出仕停止を受けていたのにも関わらず、信長に無断で桶狭間の戦いに参加して朝の合戦で首一つ、本戦で二つの計三つの首を挙げる功を立てるも、帰参は許されなかった。

永禄4年(1561年)、利家は森部の戦いでも無断参戦する。ここで斎藤家重臣・日比野清実の家来で、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛なる怪力の豪傑を討ち取る功績を挙げた。この時、足立以外にも首級1つを挙げている。2つの首級を持参して信長の面前に出ると、今回は戦功が認められ、信長から300貫が加増されて450貫文となり[11]、ようやく帰参を許された(『信長公記』)。

利家の浪人中に父・利春は死去し、前田家の家督は長兄・利久が継いでいたが、永禄12年(1569年)に信長から突如、兄に代わって前田家の家督を継ぐように命じられる。理由は利久に実子がなく(養子は利益が居た)、病弱のため「武者道少御無沙汰」の状態にあったからだという(『村井重頼覚書』)。

以後の利家は、信長が推進する統一事業に従い、緒戦に参加する。元亀元年(1570年)4月には浅井氏朝倉氏との金ヶ崎の戦いでは撤退する信長の警護を担当し、6月の姉川の戦いでは浅井助七郎なる者を討ち取る功績を上げる。同年9月には石山本願寺との間に起こった春日井堤の戦いで春日井堤を退却する味方の中でひとり踏みとどまって敵を倒す功績を上げる。天正元年(1573年)8月の一乗谷城の戦い、同2年(1574年)7月の長島一向一揆、同3年(1575年)5月の長篠の戦いなどでは佐々成政野々村正成福富秀勝塙直政らと共に鉄砲奉行としての参戦が確認されている。
北陸方面軍の一員

天正2年(1574年)には柴田勝家の与力となり、越前一向一揆の鎮圧に従事した。この際の苛烈な一向一揆の弾圧については、小丸城から出土した瓦に刻まれた「前田又左衛門どのが捕らえた一向宗千人ばかりをはりつけ、釜茹でに処した」などの記録[12]などによって伺うことができる。一揆から生き残り、まもなく行われた小丸城の普請に参加した人夫によるものと考えられており、1932年に小丸城二の丸から出土したものである(現在は武生越前の里郷土資料館所蔵)。

天正3年(1575年)8月、越前一向一揆は平定された[13]。同年9月23日、越前国府中で3万3000石を与えられた[14]。佐々成政・不破光治と共に「府中三人衆」と呼ばれるようになる。越前国平定後は、勝家与力として成政らと共に上杉軍と戦うなど北陸地方の平定に従事する。この他に、摂津国高槻城討伐、伊丹城播磨国因幡国鳥取城にも出陣した[15]
能登国主

天正9年(1581年)3月、信長の命により、菅谷長頼らともに能登国を治める[16]。同年8月17日、能登一国を与えられた[17]。利家は七尾城に入った[17]。旧加賀藩領(石川県富山県)では、この時点で「加賀藩」が成立したと解釈され、利家は初代藩主とされている(しかし、近年では徳川氏へ従属した利長を「初代加賀藩主」とする解釈もなされている)。

翌年、難攻不落ながら港湾部の町から離れた七尾城を廃城、港を臨む小山を縄張りして小丸山城を築城した[18]
賤ヶ岳の戦い - 加賀国半国加増詳細は「賤ヶ岳の戦い」を参照

天正10年(1582年)6月の本能寺の変で信長が家臣の明智光秀により討たれた時、利家は柴田勝家に従い、上杉景勝軍の籠る越中魚津城を攻略中であり、山崎の戦いに加わることができなかった。

信長の死亡後まもない6月27日、織田家の後継人事等を決定する清洲会議において、羽柴秀吉と柴田勝家が対立すると、利家は勝家の与力であったことから(若きころよりの親交、地理的な問題ともされるが真偽は不明)そのまま勝家に与することになるが、かねてから旧交があった秀吉との関係にも苦しんだ。

同年11月には勝家の命を受け、金森長近不破勝光とともに山城宝積寺城(現京都府大山崎町)にあった秀吉を相手に一時的な和議の交渉を行った。

天正11年(1583年)4月、利家は賤ヶ岳の戦いにおいて、5,000ほどを率いて柴田軍として布陣したが、戦わないうちに戦線を放棄するような動きがあり、これは秀吉の勧誘に利家が早くから応じていたからではないかと推測される[19]。合戦のたけなわで突然撤退し、羽柴軍の勝利を決定づけた。利家は越前府中城(現福井県武生市)に籠るが、敗北して北ノ庄城へ逃れる途中の柴田勝家が立ち寄ってこれまでの労をねぎらい、湯漬けを所望したという逸話が残る(『賤岳合戦記』)。その後、府中城に使者として入った堀秀政の勧告に従って利家は降伏し、北ノ庄城攻めの先鋒となった。戦後本領を安堵されるとともに佐久間盛政の旧領・加賀国のうち二郡を秀吉から加増され、本拠地を能登の小丸山城から加賀の金沢城に移した。

佐久間盛政は一向一揆の拠点であった尾山御坊の後に城を築いた際に現地の地名にちなんで金沢城と命名したが、利家は盛政色の排除と一向衆との融和、更に自身の出身地である「尾張国」にも通じることから、金沢城を「尾山城」と改名した。だが、尾山御坊以前から使われていた金沢の地名が定着していたために、利家の晩年もしくはその没後に「金沢城」に名称が戻され、後世に伝えられることになる[20][21]
小牧・長久手の戦い詳細は「小牧・長久手の戦い」を参照

天正12年(1584年)、秀吉と徳川家康織田信雄が衝突した小牧・長久手の戦いでは、佐々成政が家康らに呼応して加賀・能登国に侵攻したが、末森城で成政を撃破した(末森城の戦い)。4月9日の長久手の戦いでは秀吉方は敗北を喫したが、その後も両軍の対陣が続いて戦線は膠着状態となった。この間、丹羽長秀と共に、北陸方面の守備を委ねられていた利家は北陸を動かなかった。

末森城の戦いに勝った利家は、続いて加賀越中国境の荒山・勝山砦を攻略、越中国へも攻め込んだ(奥村氏文書)。9月19日、利家は秀吉より一連の戦いの勝利を賀されている(前田育徳会文書・温故足徴)。

成政との戦いは翌年まで持ち越され、その間に利家は上杉景勝と連絡をとって越中国境に進出させたり、成政の部将となっている越中国衆・菊池武勝に誘いの手を伸ばしたりしている。


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