前燕
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この勢力拡大を背景にして、慕容儁は352年11月に中山で皇帝を称して元璽という年号を立て、東晋から送られていた使者を追放して東晋からの事実上の独立を宣言した[4]

その後、前燕は慕容恪の指揮の下で後趙や段部の残党を平定し、357年には?(現在の河南省臨?県)に遷都した[4]。しかし南には東晋、西には前秦が迫りつつあり、また領内にも後趙残党がなおも執拗に抵抗するなど、河南に勢力を拡大しながらも外圧や内憂などで安定政権とは言い難い一面もあった[4]

慕容儁は前秦や東晋との3国鼎立に決着をつけようと大規模な軍備拡張を行ったが、360年1月に死去して挫折した[4]。第3代には子の慕容?が継いだが[4]、若年のため実権は叔父の慕容恪が握った[6]。慕容恪は賢人で甥をよく補佐しながら前燕の勢力を徐々に南方に拡大、364年8月には東晋から洛陽を奪い、366年までに淮北をほぼ制圧し[6]、前燕は全盛期を迎えた。
内訌・滅亡期

367年5月、慕容恪は病死し、実権がその叔父の慕容評に移ったことから[6]、前燕の崩壊が始まる。この慕容評は収賄政治を行って前燕を腐敗させた。前燕の急速な弱体化を見た東晋の桓温は3度目の北伐を行なって前燕に侵入した[6]。この桓温の侵攻に弱体化した前燕軍は敗戦し続け、慕容?は龍城への還都を検討するまでになる[7]。だが慕容?の叔父の慕容垂が桓温と対峙し、さらに前秦に領土割譲を条件に援軍を求める事で対抗する[7]。慕容垂は前秦軍到着の前に桓温を撃破し、慕容垂が新たな実力者として前燕では台頭し始めるが、それを憎んだ慕容評により慕容垂は排除を図られたため、やむなく前秦に亡命した[7]。慕容垂の出奔で前燕を支える大黒柱はいなくなり、逆に前秦は皇帝の苻堅宰相王猛らにより攻勢に出て、まずは洛陽が王猛により奪われた[7]

370年9月、前秦は6万の軍を動かして前燕に攻勢をかけ、前燕も40万の軍を慕容評に与えて対戦させた[7]。だが晋陽(現在の山西省太原市)や上党(現在の山西省長治市)など主だった都市が次々と攻められ、11月には苻堅自ら率いる10万の侵攻を受けて首都の?は陥落し、慕容?は捕縛されて前秦の首都長安に連行され、前燕は滅亡した[5][7]
国家体制と国勢

前燕は、華北の争乱により発生した漢人の流民や在地の漢人を積極的に受け入れることで官僚機構を構築、さらに中原の進んだ農耕技術や文化を導入して独自の政権を形成した[2]。また慕容?の時期には太宰・太傅・太保・太師・太尉・大司馬・司徒・司空の八公を頂点とする中央の支配機構が構築され[6]、以後名実共に中国王朝化していった。

人口に関しては次の統計がある。中華統一を目指した慕容儁は歩兵150万人の徴兵を図っている(ただし慕容儁の急死で頓挫)[6]。また前秦が前燕を滅ぼした際に入手した前燕の戸籍によると、370年の前燕の人口は998万7935だったと記録されている[7]、これらの統計から、仮に王朝末期の争乱で多大の戦災者が出ていたとしても、前燕の全盛期における人口は1000万を猶に超えたであろうことは想像に難くない。
歴代君主

代姓・諱生没年廟号諡号在位続柄陵墓
慕容?269年 - 333年高祖[注釈 1]襄公[注釈 2]
武宣王[注釈 3]
武宣皇帝[注釈 1]在位:285年 - 333年

遼東公:321年 - 333年
慕容渉帰の子埋葬地:青山[注釈 4]
1慕容?297年 - 348年太祖[注釈 1]文明皇帝[注釈 1]在位:333年 - 348年

遼東公:333年 - 337年


燕王:337年 - 348年
慕容?の三男埋葬地:龍山[注釈 5]

墓号:龍平陵
2慕容儁319年 - 360年烈祖[注釈 6]景昭皇帝[注釈 6]在位:348年 - 360年

燕王:348年 - 352年


皇帝:352年 - 360年
慕容?の次男埋葬地:龍山

墓号:龍陵
3慕容?350年 - 384年-幽皇帝[注釈 7]在位:360年 - 370年

皇帝:360年 - 370年
慕容儁の三男

系譜

慕容?

      

1慕容?

             
          
2慕容儁 慕容垂
後燕 慕容徳
南燕  

             
          
3慕容? 慕容泓
西燕 慕容沖
→西燕  



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