前漢
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しかし高祖は自らの築いた王朝が無事に子孫に継承されるかを憂慮し、反対勢力となり得る可能性のある韓信ら功臣の諸侯王を粛清、それに代わって自らの親族を諸侯王に付けることで「劉氏にあらざる者は王たるべからず」という体制を構築した。秦の郡県制に対して、郡県と諸侯国が並立する漢の体制を郡国制と呼ぶ[12]
呂氏の専横

前195年、高祖は崩御し、劉盈(恵帝)が後を継いだ。恵帝自身は性格が脆弱であったと伝わり、政治の実権を握ったのは生母で高祖の皇后であった呂后であった。呂后は高祖が生前に恵帝に代わって太子に立てようとしていた劉如意を毒殺、さらにその母の戚夫人残忍な方法で殺した。恵帝は母の残忍さに衝撃を受け、失望のあまり酒色に溺れ、若くして崩御してしまう[13]。呂后は前少帝後少帝(劉弘)を相次いで帝位に付けるが、劉弘は実際には劉氏ではなかったとされる[14][15]

呂后は諸侯王となっていた高祖の子たちを粛清、そして自らの親族である呂産呂禄らを要職に付け、更にこれらを王位に上らせ外戚政治を行う[15]。「劉氏にあらざる者は……」という高祖の遺志は無視されたのである。呂后は呂氏体制の確立に努めたが、前180年に死去した[15]。呂后が死去するや、朱虚侯劉章丞相陳平太尉周勃らが中心となり呂産ら呂氏一族を粛清し、呂氏の影響力は宮中から一掃された[16]。「呂氏の乱」を参照
文景の治

呂氏が粛清された後に皇帝として即位したのが代王であった劉恒(文帝)である[17]

秦滅亡から漢建国までの8年に及ぶ長い戦争により、諸王国は国力を激しく疲弊させ、一般民の多くが生業を失っていた。これに対して文帝は民力の回復に努め、農業を奨励し、田租をそれまでの半分の30分の1税に改め、貧窮した者には国庫を開いて援助し、肉刑を禁じ、その代わりに労働刑を課した。また自ら倹約に取り組み、自らの身の回りを質素にし、官員の数を減らした[18]

前157年に文帝は崩御した。遺詔で文帝は、新しく陵を築かず、金銀を陪葬せず、その喪も3日で明けさせるように遺言した[19]。後を継いだ劉啓(景帝)も、基本的に文帝と同じ政治姿勢で臨み、民力の回復に努めた。その結果、倉庫は食べきれない食糧が溢れ、銅銭に通した紐が腐ってしまうほどに国庫に積み上げられたという[# 1]。実際の数字からも国力の回復は明らかで、例えば曹参が領地として与えられた平陽の戸数は、当初は1万6千戸であったのがこの時代には4万戸に達していた[# 2]。この2人の治世を讃えて文景の治と呼ぶ。

国力の回復と共に、諸侯王の勢力の増大が新たな問題として浮上した。また、塩や鉄製品を売り捌く商人や、国家の物資輸送に携る商業活動も活発化し、商人の経済力が増大した。物を生産せず巨利を得る商人に対して、商業を抑え込んで農業を涵養することを文帝に提言したのが賈誼?錯であった。文帝の観農政策は賈誼の提言に従ったものである(#豪族節を参照のこと。[20])。

生産の回復は中央の勢力を増大させたが、同時に諸侯王の勢力も増大させた。諸侯国は中央朝廷と同じように官吏を置き、政治も財政も軍事もある程度の自治権が認められていた。これを抑圧することを提言したのが袁?や賈誼・?錯である[21]。とりわけ景帝即位後の?錯は、諸侯王の過誤を見つけてはこれを口実に領地を没収していき、諸侯王の勢力を削りにかかった。これに対して諸侯王側も反発し、呉王劉?が中心となって前154年呉楚七国の乱を起こす。この乱は漢を東西に分ける大規模な反乱だったが周亜夫らの活躍により半年で鎮圧される[22]

これ以後、諸侯王は財政権・官吏任命権などを取り上げられ、諸侯王は領地に応じた収入を受け取るだけの存在になり、封国を支配する存在ではなくなった。これにより郡国制はほぼ郡県制と変わりなくなり、漢の中央集権体制が確立された[23]
武帝期の光と影

景帝は前141年に崩御し、16歳の劉徹(武帝)が即位した。武帝は、文景の治で国家財政・経済が充実し、政治も安定したことから、積極的な活動を行おうと考えた。まず武帝は儒者を取り立てて政治の刷新を図ろうとしたが、これは祖母の竇太后の反対に遭って推進できなかった[24]。しかし、紀元前135年に竇太后が死去すると状況が変わる[25]

竇太后という束縛の無くなった武帝はこれより「雄材大略[26]」ぶりを発揮する。内政面においては儒者公孫弘董仲舒らを重用し、郷挙里選の法を定め儒者の官僚登用を開始した[27][25]。また諸侯王の権力を更に弱めるために諸侯王が領地を子弟に分け与えて列侯に封建するのを許す推恩の令を出した。これにより封国は細分化され、諸侯王勢力の弱体化が一層顕著なものとなった[28][29]

外交面では北方の匈奴とは、前200年に高祖が大敗を喫して以来、敵対と和平政策が繰り返されていたが、概ね匈奴が優勢である状況が続いていた[30]。これに対して武帝は前134年馬邑[# 3]の土豪であった聶壱の建策を採用、対匈奴戦に着手した[31][32]前129年に実施された第一回目の遠征では4人の将軍が派遣され、他の将軍が敗北を喫する中で車騎将軍・衛青は匈奴数百の首を獲得する戦果を挙げている[33][34]。以後衛青は7度に渡り匈奴へ遠征しその都度大きな戦果を挙げ、匈奴は壮丁数万、家畜数十万頭と記録される被害を受けた[35][36]。また衛青の甥である霍去病の活躍により、渾邪王が数万の衆と共に投降するという戦果も挙げた[37][38]。漢軍の攻勢を避けるため、匈奴は漠北(ゴビ砂漠の北)への移住を余儀なくされた[39][40]。漢は新たに獲得した領域に朔方敦煌などの郡を設け直接統治を開始した[41]

朝鮮半島の衛氏朝鮮・ベトナムの南越国への征服も実施し、朝鮮には楽浪郡などの四郡を、ベトナムには日南郡など九郡を設け、新たな領土とした[42][43]。また、匈奴対策の一環として張騫を西方に派遣し、烏孫大宛・その他の西域諸国と関係を結び、西域との間にいわゆるシルクロードの交易路が開けた[44][45]。そして「中国」と呼ばれる領域の大枠がこの時代に形作られた[46]

さらに武帝は始皇帝の例にならい各地を巡行し、元封元年(前110年)には泰山で封禅を行った[47][48]


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