前島密
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日本政治家前島 密まえじま ひそか

生年月日1835年2月4日
天保6年1月7日
出生地 日本 越後国頸城郡下池部村(現・新潟県上越市大字下池部
没年月日 (1919-04-27) 1919年4月27日(84歳没)
死没地 日本 神奈川県三浦郡西浦村大字芦名(現・横須賀市芦名二丁目)
称号男爵
貴族院男爵議員
当選回数1回
在任期間1904年7月10日 - 1910年3月10日
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前島 密(まえじま ひそか、1835年2月4日天保6年1月7日〉 - 1919年大正8年〉4月27日)は、日本官僚政治家教育者華族位階勲等爵位従二位勲二等男爵本姓は上野。幼名は房吾郎。)は巻退蔵、密。通称は来輔。は如々山翁鴻爪。

越後国出身。日本の近代郵便制度の主要な創設者の一人であり「日本近代郵便の父」と呼ばれ[1][2]大蔵省駅逓頭(後の郵政大臣・現総務大臣)、逓信省次官を務めた[3]。今も使われる「郵便」「切手」「葉書」という名称を定めたほか、1円切手の肖像で知られる。また、東京専門学校及び早稲田大学の建学に深く関わり、早稲田大学第2代校長を務め、校賓の名誉を受けている[4]
人物
漢字廃止を建議

1866年(慶応2年)に、前島密は「漢字御廃止之議」という建議書を将軍徳川慶喜に提出した。これは、国民の間に学問を広めるためには、難しい漢字の使用をやめるべきだという趣旨のもので、日本の国語国字問題について言文一致を提言した歴史的な文献である。前島は青年時代、江戸から帰省したとき、土産の絵草紙と三字経を甥に教えてみて、漢字教育の難しさを痛感し、漢字廃止を思い立ったのに加えて、1862年(文久2年)長崎でチャニング・ウィリアムズ立教大学創設者)から英学の教えを受ける中で、後述の郵便制度に加え、漢字廃止論もウィリアムズから示唆を受けたのである[5]

前島はその後も、国語調査委員としてこの問題に取り組んでいる。郵便制度にも「切手(きって)」「はがき」「手紙(てがみ)」「小包(こづつみ)」「為替(かわせ)」「書留(かきとめ)」などやまとことばを導入した[6]
江戸遷都を建言

明治政府は新しい首都をどこにするか検討している中、前島密は、1868年(慶応4年)に大久保利通の大阪遷都論を読んで、これに対し、遷都の地は我が国の中央にあたる江戸でなければならないと大久保に建言した。この意見は大久保を動かし、実現することとなる。この年7月江戸は東京と改められ、9月に天皇は東京へ行幸になり、江戸城は皇居となった。
鉄道敷設の立案

前島密が明治政府に出仕して間もない1870年(明治3年)、上司の大隈重信から、鉄道の建設費と営業収支の見積りを作るよう命じられる。当時日本には、その標準となるような資料は全くなかったが、苦心の末に精密な計画案を作り上げた。のちにこれを見た外国人はその的確さに敬服したという[要出典]。前島はこの案に「鉄道臆測」と名づけた。品川横浜間に鉄道が仮開業したのは1872年(明治5年)5月、新橋横浜間の正式開業は9月のことであった。
郵便創業

前島密は、1862年(文久2年)、長崎でチャニング・ウィリアムズから英学を学ぶ中で、郵便制度についても学び、後に日本の近代的郵便制度の基礎確立に繋がることとなる。ウィリアムズは、前島に「通信の国家に於けるは、恰も血液の人身に於ける様な者である(中略)通信は即ち血液で、血管は駅逓である(後略)」と説明し、切手の貼られた書状を見せ、切手の持つ役割を教示した[7][8]。かくして、1871年(明治4年)3月1日(新暦4月20日)、前島密の発議により、東京大阪間で官営の郵便事業が開始される。前島は、大蔵省や内務省の官僚としての仕事をこなしながら、1870年(明治3年)から11年間もの長い間郵政の長として、熱心にこの事業の育成にあたり、その基礎を築いた。そのため「郵便の父」とたたえられている。「郵便」や「郵便切手」などの用語は、彼自身が選択した言葉である。
新聞事業の育成

前島密は、欧米社会を見聞して、広く世間の出来事を伝える新聞が必要なことを痛感し、その発達を助けるために、1871年(明治4年)12月新聞雑誌の低料送達の道を開く。その翌年6月には、自ら出版者を勧誘し、太田金右衛門に郵便報知新聞(後の報知新聞)を創刊させた。また、1873年(明治6年)には記事の収集を容易くするため新聞の原稿を無料で送れるようにした。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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