前原一誠
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没年 (1876-12-03) 1876年12月3日(42歳没)[1]
没地長門国・
活動倒幕萩の乱
長州藩
受賞贈従四位
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前原一誠
第二代 兵部大輔
在任期間1870年1月3日 - 1870年9月26日
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宇龍港で捕縛される前原一誠(月岡芳年画)

前原 一誠(まえばら いっせい)は、日本武士長州藩士)。は一誠。通称は八十郎、彦太郎。倒幕運動志士として活躍したが、明治維新後、萩の乱の首謀者として処刑された。

位階は贈従四位大正5年(1916年)4月11日)。維新の十傑の一人。参議、兵部大輔(現在の国防次官)を務めた。
出自

本姓佐世氏は、宇多源氏佐々木氏の分流で、出雲源氏の諸流に属する。遠祖は尼子氏毛利氏の家臣である佐世清宗
経歴

天保5年(1834年3月20日、4月28日長門国土原村(現・山口県萩市)にて、長州藩士・佐世彦七(大組47石)の長男として生まれ、前原氏を相続する。前原家の遠祖は戦国武将米原綱寛である。

天保10年(1839年)、郡吏となった父とともに厚狭郡船木村に移住。のちに萩にて修学するが、嘉永4年(1851年)、再び船木にて陶器製造など農漁業に従事する。安政4年(1857年)、久坂玄瑞高杉晋作らと共に吉田松陰松下村塾に入門する。松陰の処刑後は長崎で洋学を修め、のちにの西洋学問所・博習堂に学ぶ。

文久2年(1862年)に脱藩し、久坂らと共に直目付・長井雅楽の暗殺を計画する。文久3年(1863年)、右筆役、七卿方御用掛。その後は高杉らと下関に挙兵して藩権力を奪取し、用所役右筆や干城隊頭取として倒幕活動に尽力した。長州征伐では小倉口の参謀心得として参戦、明治元年(1868年)の戊辰戦争では北越戦争に出兵し、参謀として長岡城攻略戦など会津戦線で活躍する。明治3年(1870年)、戦功を賞されて賞典禄600石を賜る。

維新後は越後府判事(次官)や参議を勤める。大村益次郎の死後は兵部大輔を兼ねたが、出仕することが少なかったため、船越衛は省務停滞を嘆いている。また、大村の方針である「国民皆兵」路線(徴兵令)に反対して木戸孝允と対立する。

やがて、徴兵制を支持する山縣有朋に追われるように下野し、萩へ帰郷する。新政府の方針に不満をもった前原は明治9年(1876年?)、奥平謙輔とともに不平士族を集めて萩の乱を引き起こしたが、即座に鎮圧されて捕らえられ、12月3日、萩にて斬首刑に処されたとされる。享年43(満42歳没)。

彼の辞世の詩として伝えられるのは、「吾今国の為に死す、死すとも君恩に背かず。人事通塞あり、乾坤我が魂を弔さん。」

またその戯句に、「これまでは いかい御苦労 からだどの よびだしの声 まつむしや秋の風 」

墓所は山口県萩市土原の弘法寺。遺言により戒名はないという[2]
評価

吉田松陰

「八十郎(一誠)は勇あり、智あり。誠実人に過ぐ。いわゆる布帛粟米。適用せざるなし。その才や實甫(久坂玄瑞)に及ばず。その識や暢夫(高杉晋作)に及ばず。しかしてその人物の完全なること、二子また八十に及ばざること遠し。吾友肥後の宮部鼎蔵の資性、八十と相近し。八十父母に事へて至孝。余未だ責むるに国事を以てすべからざる也」[3]

「佐世八十郎に至っては隠然両郎(高杉・久坂)の一敵国である」



横山幾太 「極めて重厚なる風の人」[4]


渡邊嵩蔵 「佐世八十郎は、村塾にても余り多くは読書せず」[4]


曽我祐準 「妙な人で、事の善悪を決して云わぬ人であった」[5]

親族

甥:
国司仙吉(秋田県権令、異父姉「まし」の子息)[6]

脚注[脚注の使い方]^ 『前原一誠』 - コトバンク
^ 中嶋 繁雄 『明治の事件史―日本人の本当の姿が見えてくる!』 青春出版社〈青春文庫〉、2004年3月20日、47頁


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