刺青
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当時中国趣味が流行して『通俗忠義水滸伝』(18世紀後半)など翻案物が多く出版され、寄席・講談などで演じられるなど水滸伝ブームが起こり、物語に登場する豪傑たちの活躍を刺青にするのが明治期まで流行った[39]。水滸伝は登場人物に刺青が施されている(史進など)こともあり、任侠道にも通じるいわゆる「漢」の勇壮さを江戸期の人々に印象付け、刺青文化の発展に強い影響を与えた。

江戸時代末期には歌川国芳を代表とする浮世絵などの技法を取り入れて洗練され、装飾としての入れ墨の技術が大きく発展した。

国芳は華やかな刺青に覆われた勇壮な男たちを描いた『通俗忠義水滸伝豪傑百八人之一個』シリーズを文政10年(1827年)より出版し、全身に刺青を施すという刺青史上画期的なブームを作った[39]。また、同じ文政年間ごろから、墨だけでなく朱や藍が入れられるようになった[39]

背中の広い面積を一枚の絵に見立て、水滸伝や武者絵など浮世絵の人物のほか、竜虎や桜花などの図柄も好まれた。額と呼ばれる、筋肉の流れに従って、それぞれ別の部位にある絵を繋げる日本独自のアイデアなど、多種多様で色彩豊かな入れ墨の技法は、この時代に完成されている。

11代将軍徳川家斉文化年代(19世紀前半)に入れ墨の流行は極限に達し、博徒火消し飛脚など肌を露出する職業では、入れ墨をしていなければむしろ恥であると見なされるほどになった。

刑罰で入れ墨を施された前科者がより大きな入れ墨を施すことでこれを隠そうとする場合もあった。幕府はしばしば禁令を発し、厳重に取り締まったが、ほとんど効果は見られず、やがてその影響は武士階級にも波及して行き、旗本御家人の次男坊・三男坊や、浪人などの中にも、入れ墨を施す者が現れるようになり、図案にも「武家彫り」や「博徒彫り」といった出身身分の違いが投影された。

下総小見川の藩主内田正容などは、一万石の知行を持つれっきとした大名でありながら入れ墨を入れていたと言われる。ただし正容は幕府に不行跡を理由に隠居を命ぜられた。

時代劇で有名な江戸町奉行の遠山景元に入れ墨があったとの伝承が残されているが、これを裏付ける資料は発見されていない。

また、当時の武士階級の間では入れ墨のある身体を斬ることに対して、その呪術性への恐れから生じた忌避感情が存在していたことも記録[注釈 4]されており、市中では帯刀できない町人にとって刃傷沙汰を避ける自衛策としての側面もあった。
明治以降

明治維新以降、近代国家体制の構築に邁進した新政府は外国人の目に対する配慮から、1872年(明治5年)の太政官令によって入墨刑を廃止するとともに、同年11月に司法省が発令した違式?違条例を受けて旧幕臣出身である大久保一翁東京府知事が発した布告によって、装飾用途の入れ墨を入れる行為を禁止[注釈 5]し、既に入れ墨を入れていた者に対しては警察から鑑札が発行された。入れ墨を施す行為は厳しく取り締まられ、当時の彫師達は取り締まりを恐れて住居を転々と移した。

他方、日本の伝統的入れ墨の芸術性と高い技術は外国船の船員を通じて世界に広く知られ、1881年に英国のジョージ5世とアルバート王子が来日に際して日本の入れ墨師による入れ墨(花繍)を彫った[41]。また、1891年に皇太子時代のロシア皇帝ニコライ2世(ジョージ5世の従兄弟にあたる)とギリシャのゲオルギオス王子が来日した際にも、両腕に龍の入れ墨を入れたことも知られている[42]

その後、時を経るごとに入れ墨はある程度黙認される存在へと移行し、小泉又次郎小泉純一郎の祖父)のように禁令後に入れ墨を入れながら政治家として活躍する人物も現れた。普請現場で働く大工。威勢の良い男で、入れ墨をしている。
(『童謡妙々車』(刊行年:嘉永8年(1855年)?明治7年(1874年)より)[43]

また、入れ墨の持つ性的装飾としての側面や嗜虐性も大衆文化のなかで再び焦点化され、明治期の谷崎潤一郎の『刺青』や昭和初期の江戸川乱歩の『黒蜥蜴』などの小説世界に入れ墨を施した登場人物が描かれた。また、推理小説で名を馳せた横溝正史も多くの作品で入れ墨をモチーフとして、あるいは小道具として多用している。
戦後

終戦後の1948年(昭和23年)、米国GHQの占領政策の一環として、入れ墨は再び合法化されることとなった[44][45]。欧米を主とした海外からの日本の伝統的な入れ墨に対する関心の高まりにも関わらず、明治以降の非合法化されてきた印象は払拭されなかった。1960年代以降、娯楽の中心だった映画が入れ墨と「ヤクザ」との結びつきをドラマチックに焦点化し(ヤクザ映画)、大衆文化の中で「入れ墨=ヤクザ」のイメージが広く形成された。

現代では、海外のタトゥー文化の趨勢に呼応した芸能人やアーティスト、ファッションモデルなどから影響を受けて入れ墨(タトゥー)を施す若者が増加傾向にある[46]。おしゃれを楽しむためのツールとして「ファッションタトゥー」「プチタトゥー」「ワンポイントタトゥー」を施す女性もいる。また、入れ墨を扱った「TATTOO girls」[47]など入れ墨を主要な題材としたファッション雑誌も各種出版された。

しかし戦後も容認されにくい傾向は残り、公衆の場で受け入れられているとは言い難く、採用拒否やスポーツでの出場禁止、入場拒否などが認められている(後述)。また、入れ墨保有者が結婚や出産などに際して、家庭や教育で支障をきたすこともあり、親の入れ墨を理由に子どもが学校でいじめを受ける、逆に親の脅威から敬遠されて友人ができないなどの事例もある。

芸能人でも例えば酒井法子が覚醒剤所持で逮捕された際には、入れ墨をしていたことが「異変の兆候」として報道された[19]ように、過去の不良行為の印として扱われる傾向にある[48]

入れ墨愛好家からはこうした風潮が形作られたことを法律の拡大解釈であり、警察の示威行為とみる意見もある[49]

それでも、2020年代に入ると大手飲食チェーン店でも人手不足を背景に入れ墨を容認するようになった。例として2023年11月1日にはスシローが服務規定を改定し、入れ墨を規定で認めることとなった[50]

一方で海外で和彫は人気のあるジャンルであり、東洋デザインのオリジナリティと精密さから外国人は多くの和彫りをいれている。また日本の彫師彫巴など海外に拠点を移す彫師も増えている。[51][52]
呼称

日本において入れ墨が施されて来た理由は、身体装飾・個体認識・社会的地位や身分の表示・宗教上の理由など多種多様であり、その歴史的経緯はいくつかの曲折を経たため、多様な呼称が存在する。

紋身(もんしん)

倶利迦羅紋々(くりからもんもん)
[注釈 6]

紋々(もんもん)

彫り物(ほりもの)

タトゥー

など様々な表現で呼ばれており、入れ墨を施す行為も墨を入れる、彫るなどと表現されるほか、苦痛と金銭的な負担をかけて『がまん』と呼ぶ場合もあるとされる。なお、近年のマスメディアによる報道、法律・条例の条文では、入れ墨という呼称が用いられる[53][54]。古来より、入墨や彫物という呼称が多く使われる。ほか歴史的に黥(げい)、文身(ぶんしん)、箚青(とうせい、さっせい)のほか、入黒子(いれぼくろ)といった呼称がある。日本の伝統的な入れ墨を和彫りと呼ぶのに対して、欧米における入れ墨の呼び名であるタトゥー (tattoo) [55]を洋彫りと呼び分けている場合もあるが、両者に本質的な違いはなく図案や描画の技法に違いがあるのみである。
日本社会における取り扱い
法的・社会的規制
被施術者側2007年の三社祭では都迷惑防止条例違反の疑いで逮捕者を出した

入れ墨に対する法的規制は、敗戦後の1948年(昭和23年)、軽犯罪法の公布とともに解かれた(それまでは警察犯処罰令で処罰対象だった。人権侵害の疑いがあることからGHQにより入れ墨禁止が条文より外された)ため、現在の日本では入れ墨そのものに対する法的規制は存在しない。明治以降の法規制の結果、入れ墨に対する規制が生じるものとなっている。
社会にみる規制行為

入場制限

入れ墨を入れた者は公衆浴場法で定められた浴場を除いた非認可入浴施設[注釈 7][56][57]温泉大浴場サウナスーパー銭湯健康ランドなど)や遊園地、プール海水浴場ジムゴルフ場などへの入場を断られることがあるが、これは各施設の規則によるものであり法的な制限はない。施設管理者に逆らった場合は建造物侵入罪(刑法130条前段)の構成要件に該当し、入れ墨をした者が退場を求められても従わなかった場合は不退去罪(刑法130条後段)の構成要件に該当する。しかし最近では外国人も多くいるため、入場を規制しない施設や入れ墨をシールで隠す対応を取れば入場を可能とする施設が出てきている[58]。ただし、公衆浴場法では入浴を拒む理由として入れ墨が認められていないために、公衆浴場法で定められた公衆浴場では入れ墨を入れた者も入浴が可能である。


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