刺青
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これは『古事記』の神武天皇紀に記された、伊波礼彦尊(後の神武天皇)から伊須気余理比売への求婚使者としてやって来た大久米命の“黥利目・さけるとめ”(目の周囲に施された入れ墨)を見て、伊須気余理比売が驚いた際の記述[35]を論拠とするものである。

さらに、『日本書紀』には蝦夷が入れ墨をしているという記述があり、全員入れ墨をしていたという邪馬台国大和朝廷とでは、入れ墨に関して正反対の態度が窺える。

これに対して、顔に入れ墨と思しき線が刻まれた人物埴輪が畿内地方からも出土[36]している例や、出土地域による図案の違いから、類型化もなされている事実などが反証として挙げられている。

ただし、近年の研究ではアイヌの入れ墨は縄文の形式を踏襲したもので、弥生時代・古墳時代の黥面は大陸側の龍文化の影響を受けて成立していたことが示されており、日本列島の東西黥面文化さらに大陸文化が混じることで、古代日本のいれずみ文化が形成されていたことが指摘されている。また、『古事記』『日本書紀』にみる黥・文身の内容は事実の記録ではなく、当時の国際情勢から政治的に操作されての記述であることが指摘されている[37]
奈良時代 - 戦国時代

古代の日本における入れ墨の習俗が廃れるのは、王仁および513年百済五経博士渡来による儒教の伝来以降と考えられる。

遣唐船の乗組員に入れ墨の習俗があったとされ、後に発生した倭寇集団もまた入れ墨を入れており、海上交易や漁撈を生業とする人々の間では、呪術と個体識別の目的で広く入れ墨が施された。

この他、蝦夷隼人といった人々や儒教と対立した密教の僧侶によって、入れ墨の技術が継承された。山岳仏教出身者であり書寫山圓教寺を開いた性空は、胸に阿弥陀仏の入れ墨を入れていた。日本においては耳なし芳一の説話が有名だが、経文を直接身体に書き込む行為は、仏法への帰依とその加護を得る目的で広く行われた。現代のタイカンボジアなど上座部仏教の盛んな地域では、経文を身体に入れ墨する習慣が一般的に見られる。

中世に入ると人々の日常生活を描いた絵画が残されるようになるが、これらの絵画に入れ墨をした人々が描かれている例は見られない。

また、戦国時代には死を覚悟した雑兵達が、自らの名や住所を指に入れ墨で記す個体識別目的の習俗があった。
江戸時代浪子燕青水滸伝より)
歌川国芳入れ墨を施した男性
フェリーチェ・ベアト撮影(1870年頃)アドルフォ・ファルサーリ撮影、手彩色写真(1881年)[38]

17世紀頃になると入れ墨に対する記録が残されるようになる。当時、入れ墨による芸術や表現の文化は社会であまり見かけないものであったが、江戸神田の釣鐘与弥左衛門には文字の入れ墨で「南無阿弥陀仏」とあったことが知られている。江戸や大阪などの大都市に人口が集中し始めたことから、犯罪の抑止を図る目的で入墨刑が用いられるようになり、1720年(享保5年)には徳川吉宗が中国の明王朝で行われていた墨刑(入れ墨刑)を採用した。そのようなことから江戸の後期頃になると、罰としての「入墨(いれずみ)」(烙印)と「彫り物(ほりもの)」(芸術表現)とで呼称を分けて、そこでの意味を区別する風潮が生じていた[37]

遊廓などにおいては、遊女が馴染みとなった客への気持ちを表現し起請する手段として、上腕に相手の年の数のほくろを入れたり、「○○命」といった入れ墨を施す「起請彫(きしょうぼり)」(神仏に禊を立てるという意味を持つ彫り物[39])と呼ばれた表現方法が流行した。

こうした風潮に伴って、古代から継承された漁民の入れ墨や、経文や仏像を身体に刻む僧侶の入れ墨といった、様々な入れ墨文化が都市で交わった。

現代に続く日本の華美な入れ墨文化は、江戸時代中期に確立された。

明和安永期(18世紀後半)になると、侠客の間で刺青を誇示することが目立ってきた[39]。江戸火消しや鳶などを中心として『』を見せるために好んで施した。それは江戸時代での美意識を形成するものとなっている。

当時中国趣味が流行して『通俗忠義水滸伝』(18世紀後半)など翻案物が多く出版され、寄席・講談などで演じられるなど水滸伝ブームが起こり、物語に登場する豪傑たちの活躍を刺青にするのが明治期まで流行った[39]。水滸伝は登場人物に刺青が施されている(史進など)こともあり、任侠道にも通じるいわゆる「漢」の勇壮さを江戸期の人々に印象付け、刺青文化の発展に強い影響を与えた。

江戸時代末期には歌川国芳を代表とする浮世絵などの技法を取り入れて洗練され、装飾としての入れ墨の技術が大きく発展した。

国芳は華やかな刺青に覆われた勇壮な男たちを描いた『通俗忠義水滸伝豪傑百八人之一個』シリーズを文政10年(1827年)より出版し、全身に刺青を施すという刺青史上画期的なブームを作った[39]。また、同じ文政年間ごろから、墨だけでなく朱や藍が入れられるようになった[39]

背中の広い面積を一枚の絵に見立て、水滸伝や武者絵など浮世絵の人物のほか、竜虎や桜花などの図柄も好まれた。額と呼ばれる、筋肉の流れに従って、それぞれ別の部位にある絵を繋げる日本独自のアイデアなど、多種多様で色彩豊かな入れ墨の技法は、この時代に完成されている。

11代将軍徳川家斉文化年代(19世紀前半)に入れ墨の流行は極限に達し、博徒火消し飛脚など肌を露出する職業では、入れ墨をしていなければむしろ恥であると見なされるほどになった。

刑罰で入れ墨を施された前科者がより大きな入れ墨を施すことでこれを隠そうとする場合もあった。幕府はしばしば禁令を発し、厳重に取り締まったが、ほとんど効果は見られず、やがてその影響は武士階級にも波及して行き、旗本御家人の次男坊・三男坊や、浪人などの中にも、入れ墨を施す者が現れるようになり、図案にも「武家彫り」や「博徒彫り」といった出身身分の違いが投影された。

下総小見川の藩主内田正容などは、一万石の知行を持つれっきとした大名でありながら入れ墨を入れていたと言われる。ただし正容は幕府に不行跡を理由に隠居を命ぜられた。

時代劇で有名な江戸町奉行の遠山景元に入れ墨があったとの伝承が残されているが、これを裏付ける資料は発見されていない。

また、当時の武士階級の間では入れ墨のある身体を斬ることに対して、その呪術性への恐れから生じた忌避感情が存在していたことも記録[注釈 4]されており、市中では帯刀できない町人にとって刃傷沙汰を避ける自衛策としての側面もあった。
明治以降

明治維新以降、近代国家体制の構築に邁進した新政府は外国人の目に対する配慮から、1872年(明治5年)の太政官令によって入墨刑を廃止するとともに、同年11月に司法省が発令した違式?違条例を受けて旧幕臣出身である大久保一翁東京府知事が発した布告によって、装飾用途の入れ墨を入れる行為を禁止[注釈 5]し、既に入れ墨を入れていた者に対しては警察から鑑札が発行された。入れ墨を施す行為は厳しく取り締まられ、当時の彫師達は取り締まりを恐れて住居を転々と移した。

他方、日本の伝統的入れ墨の芸術性と高い技術は外国船の船員を通じて世界に広く知られ、1881年に英国のジョージ5世とアルバート王子が来日に際して日本の入れ墨師による入れ墨(花繍)を彫った[41]。また、1891年に皇太子時代のロシア皇帝ニコライ2世(ジョージ5世の従兄弟にあたる)とギリシャのゲオルギオス王子が来日した際にも、両腕に龍の入れ墨を入れたことも知られている[42]

その後、時を経るごとに入れ墨はある程度黙認される存在へと移行し、小泉又次郎小泉純一郎の祖父)のように禁令後に入れ墨を入れながら政治家として活躍する人物も現れた。普請現場で働く大工。威勢の良い男で、入れ墨をしている。
(『童謡妙々車』(刊行年:嘉永8年(1855年)?明治7年(1874年)より)[43]

また、入れ墨の持つ性的装飾としての側面や嗜虐性も大衆文化のなかで再び焦点化され、明治期の谷崎潤一郎の『刺青』や昭和初期の江戸川乱歩の『黒蜥蜴』などの小説世界に入れ墨を施した登場人物が描かれた。また、推理小説で名を馳せた横溝正史も多くの作品で入れ墨をモチーフとして、あるいは小道具として多用している。
戦後

終戦後の1948年(昭和23年)、米国GHQの占領政策の一環として、入れ墨は再び合法化されることとなった[44][45]。欧米を主とした海外からの日本の伝統的な入れ墨に対する関心の高まりにも関わらず、明治以降の非合法化されてきた印象は払拭されなかった。1960年代以降、娯楽の中心だった映画が入れ墨と「ヤクザ」との結びつきをドラマチックに焦点化し(ヤクザ映画)、大衆文化の中で「入れ墨=ヤクザ」のイメージが広く形成された。


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