刈谷市
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かつては「谷」ではなく「屋」の字を当てており、『宗長日記』や『三河物語』や『信長公記』や『今川氏真判物』では「苅屋」または「かり屋」と表記されている。

「以前は『亀村』と称していたが、877年(元慶元年)に出雲より一族を連れ移住した狩谷出雲守の名による」という伝承があり、平安時代から刈谷という地名があったとする説もある。その他、水野藤九郎代牛田守次寄進状写に「一四百文目 坪本苅屋南 天文十九年 庚戌 三月六日」、水野和泉守寄進状に「合壱所者 坪ハ深見苅屋百姓友三郎 大永五年 乙酉 弐月彼岸日 水野和泉守近守」とある。東照宮御実紀巻一に、三州刈屋の水野右衛門大夫忠政とある。

アクセントは「かりや」(「渋谷」と同じ平板型アクセント)。
地理刈谷市中心部周辺の空中写真。
1987年撮影の6枚を合成作成。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。
位置

三河国の西端に位置し、三河国と尾張国との国境だった境川が市の西端部を流れる。この川に沿って市域は南北に長い形をしており、南北最長は13.2キロメートルとなっている。市域は海抜10メートル前後の平坦な土地であり、郊外には田畑が広がっている。

境川の他にいずれも境川水系の逢妻川猿渡川等の中小河川が市内を東西に横断するように流れ、それぞれの流域に小規模ながら沖積平野を形成している。これらの沖積平野部はかつては衣浦湾が入り込んだ入り江であったところに河川がもたらす土砂が堆積して生じたものである。この沖積平野部に近世初頭以後干拓によって得られた新田が加わり、低湿地帯を形成しており、多くは現在も水田として利用されている。

そのほかの市域の多くは洪積台地であり、工場や住宅地が拡がっている。北部の愛知教育大学周辺は丘陵地帯であり、国の天然記念物である小堤西池カキツバタ群落など僅かではあるが自然が残る地域である。

現在の南北に細長い市域の成立は、近代の市町村合併によるものだが、江戸時代の刈谷藩の時代に既に、元刈谷地区 - 井ヶ谷地区の半分まで、藩領であったことが確認できる。一方で、半城土・依佐美・小垣江の南部・東部は、重原藩であった。そのほか、高浜市域が刈谷藩であったことが確認できる。
地形
河川
主な川


逢妻川

境川

猿渡川

湖沼
主な池


小堤西池

地域
市内の地域一覧
刈谷市の町名」を参照
人口


刈谷市と全国の年齢別人口分布(2005年)刈谷市の年齢・男女別人口分布(2005年)
■紫色 ― 刈谷市
■緑色 ― 日本全国■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性

現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。

刈谷市(に相当する地域)の人口の推移
総務省統計局 国勢調査より

隣接自治体
愛知県


豊田市

安城市

大府市

知立市

高浜市

豊明市

みよし市

愛知郡東郷町

知多郡東浦町

歴史
原始・古代

衣浦湾の入り江の奥に位置し、魚介類が豊富に採れ、台地端からの湧水も豊富であったことから、旧石器時代より人の住む地域であったと考えられている。市内には縄文時代の本刈谷貝塚のような貝塚や、古墳も多く存在している。窯業も行われた。
中世・近世
城下町としての刈谷

平安時代末期から室町時代にかけては、知立を中心とした広大な荘園であった重原荘の一部となっており、地頭の重原氏や二階堂氏大仏氏が支配した。刈谷の城下町としての歴史は戦国時代前期の天文2年(1533年)、水野氏宗家水野忠政刈谷城築城に始まる。当時は刈谷と東浦の間には衣浦湾が入り込んでおり、刈谷城の背後は入り江、周囲は湿地に囲まれており、水に浮かんだ亀のごとくに見えたことから別名を亀城と呼ばれた。本丸には三層のも建造されていた。

水野忠政は緒川から刈谷に本拠地を移し、徳川家康生母於大の方は刈谷城主の娘として、同じく今川氏傘下の岡崎城主松平広忠のもとに嫁いだ。父水野忠政の死後、兄水野信元が今川氏を離れ織田信秀と同盟(織水同盟)を結んだため松平氏を離縁となった彼女は阿久比城主久松俊勝に再嫁するまでの日々を刈谷城近くの椎の木屋敷で過ごした。三河・尾張に於ける有力な豪族であった水野氏の拠点として刈谷はしだいに政治的戦略的に重要性を増していき城下町としての体裁を整え始めた。

なお水野信元の時代について『三河物語』や『今川氏真判物』に下記のような記述がみられる。

『三河物語』によると、桶狭間の合戦の項目で「小河より水野四郎右衛門尉(信元)殿方カラ、浅井六之助(道忠)ヲ使にコサせラレテ」との記述があり、桶狭間合戦当時、信元は緒川城周辺を守備するか、もしくは戦の成り行きを日和見していたと考えられる。同じく『三河物語』の三河一向一揆の項目では「水野下野守(信元)殿、雁屋(刈谷)より武具にて佐崎之取出え見舞に御越有。」と記述がある。

また、永禄3年(1560年)6月8日付の岡部元信宛の今川氏真判物に「苅屋城以籌策、城主水野藤九郎其外随分者、数多討捕、城内放火、粉骨所不準于他也」とあり、屋が当てられている。上記の判物には桶狭間合戦当時の刈谷城主水野藤九郎(信元の弟)と記されているが、藤九郎信近は信元の城代として刈谷を守備していたと考えるのが妥当である。武家のしきたりとして弟は嫡男の家臣となるのが通例であった。今川方の文書から藤九郎信近を刈谷城主とするのは適当でない。
江戸期の刈谷

江戸幕藩体制の刈谷藩水野勝成の3万石で始まった。その後江戸中期までは頻回に転封があり、石高の最小は阿部氏の1万6000石から最大は本多氏の5万石まで変化したが、いずれも譜代の小藩であった。1747年、土井氏が2万3000石で入封し、以後、土井氏の治世が廃藩置県まで120年余り続いた。この間、刈谷は城下町として少しずつ発展していった。市域は侍屋敷を中心に発達したが、多くの町人も集まり、太田平右衛門、加藤新右衛門、岡本権四郎等の大商人も現れ、活況を呈するようになった。

土井家時代の市域の中部・南部は刈谷藩の領地であり、北部の井ヶ谷村の半分および東境村の半分も含まれた。市の南部や東部の一部(半城土、小垣江など)は刈谷藩の領地であったが、寛政4年(1792年)、土井氏の第3代藩主・土井利制の時代に寛政一揆の責任を取らされ、陸奥福島藩と村替え(領地替え)が行われた。後に重原藩の領地となる。市域の一部には、西大平藩などの領地もあった。

幕末期、刈谷藩主土井利善は早くから西洋式軍隊の優位性を認め西洋式軍事訓練を行う開明的な譜代大名として知られており幕府陸軍奉行に任じられ、やがては幕閣を担う逸材として将来を嘱望されていた。

また同時期に、譜代藩であったにもかかわらず刈谷藩は二人の勤皇志士を輩出している。天誅組総裁松本奎堂と同組幹部の宍戸弥四郎である。本来、藩主土井利善と松本、宍戸は良き主従であり互いの理解者でもあったのだが、激動の時代の幕開けはしだいに松本や宍戸らを先鋭的な勤王運動へと向かわせ二人は吉野での天誅組の壊滅と共に壮絶な死を遂げることとなった。

そして天誅組の変は刈谷藩主土井利善の運命も変えてしまった。元家臣が天誅組の幹部である責任を問われた彼の幕府内での立場は一転し、隠居に追い込まれたのち失意のうちに死去したのである。

さらには勤皇派藩士の誤認による三家老斬殺事件という悲劇も起きており、大きく動揺した。
近代・現代豊田自動織機G3型(刈谷市歴史博物館所蔵)


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