刀狩
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だが、豊臣政権の法令は、天正18年(1590年)8月10日の後北条氏の殲滅後の奥州仕置の諸政策総覧の確認のための石田三成あて朱印状では、刀狩りで「刀類と銃の百姓の所持は日本全国に禁止し没収した、今後出羽・奥州両国も同様に命じる」とされ、秀吉は、基本的な法令を含め全国諸侯には出さないが、一度発布した法令は全国に適用し、どこの大名と各地域も拘束するものと捉えていた[13]

秀吉は、関白就任3か月前の1585年天正13年)3月から4月に根来衆雑賀一揆制圧戦で、戦参加の百姓を武装解除が前提で助命し耕作の専念を強いる、第1条、第3条に類似する指令を出して、すでに政策の原型はできており、歴史家の藤木久志から「原刀狩令」と名付けられている[14]。同年6月にも高野山の僧侶に対して同様の武装放棄と仏事専念を指令し、10月実行させた。

多聞院日記』などでは、政策の主目的が一揆(盟約による政治共同体)の防止であったと記されている。当時の百姓身分の自治組織である惣村は膨大な武器を所有しており、相互に「一揆」の盟約を結んで団結し、領主の支配に対して大きな抵抗力を持つ存在だった。

ルイス・フロイスの『日本史』によると、刀狩に先立つ1587年(天正15年)にバテレン追放令が出された肥前国佐賀県長崎県)では、武装蜂起に備え武器を隠すのを防ぐために、刀鑑定の刀匠を派遣し「名刀を買いに来た事」を宣伝し、自慢の刀の価値を知ろうと集まった村人たちに、刀匠が持ち主や銘を聞き記録作成し、その記録を元に刀狩令を交付後100人近い役人を投入し16000本の刀を没収した。

ただ実際には、その他の槍、弓矢、害獣駆除のための鉄砲や祭祀に用いる武具などは所持を許可されていたともいわれている。そもそも秀吉の刀狩令は全面的武装解除を行うものではなく、農村に大量の武器が存在する事実を承認しつつ、村々百姓に武装権の行使を封印するよう求める趣旨のものであったとする研究がなされている[15]。刀狩りは、1人当たり大小1腰を差し出せという実行形態も多いし、調べの後すぐに所持が許可された例も多く、中世農民の帯刀権をはく奪する象徴的な意味で行われたと思われ、これにより百姓の帯刀を免許制にするという建前を作りだすことに重点があった。そのため、刀狩の多くは武家側が村に乗り込むのではなく村任せで実行されたケースが多い[16]

秀吉は、刀狩に先行して、1587年(天正15年)ごろ、武器の使用による村の紛争の解決を全国的に禁止した(喧嘩停止令)。それまでの日本では多くの一般民衆が武器を所持しており、特に成人男性の帯刀は一般的であった。また、近隣間の水利里山、草地などの権利や、他の些細なトラブルでさえ暴力によって解決される傾向にあったがそれらを防止した[17]。この施策は江戸幕府にも継承された[18]

さらに、天下統一後の1590年(天正18年)「浪人停止令」で、農村内の武家に仕える定まった奉公人以外の雑兵農民を禁止し村から追い出す指令を出したが、その第3条で奉公人以外の百姓から武装を取り上げるように指示した。一方、武家奉公人の農村内での武器の所持を例外として認めていた。

以上のことから、秀吉の刀狩令は百姓身分の武装解除を目指したものではなく、農村内の武器の存在を前提としながら、百姓身分から帯刀権を奪い、その武器使用を規制するという兵農分離を目的としたものであったとする学説が現在では有力である[19]。そもそも当時は厳格な身分制度は確立しておらず、武士と一般民衆の区別は存在しない。惣村の有力者の多くが国人領主と主従関係を結んで地侍になっており、当時の一揆は、農民蜂起とも、武士による叛乱とも区別がつきにくいものである。その区別が生まれたのが、刀狩令以降である。
江戸時代の刀狩の展開

後に江戸時代には長州藩など帯刀免許制も崩れた地域もあり、地方により規制に強弱が見られ、江戸幕府が当初には銃刀規制に積極的ではなかった。天草・島原一揆に、危機感を募らせた肥後藩細川忠利の「全国への武具取り上げ」のたびたびの老中への提言にも動かなかった。逆に、天草一揆後、天草藩へ国替えになった山崎家治は前領主が集めていた一揆方の多くの武器、刀脇差1450本、鉄砲324挺の全てを幕閣の承認を得て、元の村内へ返却している。江戸町民も長刀・長脇差以外の一般の1尺8寸(約54cm)までの脇差の装備は1720年(享保5年)でも布令は無くとも慣習として行われていた。そして1683年までは、旅立ち・火事・葬礼時の町民の帯刀二本差しも許容されていた。しかし、「文治政治」の導入に伴って、17世紀後半に再び帯刀規制に乗り出した。1668年寛文8年)江戸御用町人以外の日常帯刀を禁止し、後1683年天和3年)に江戸町民全ての帯刀を禁止して、それは全国的に拡大していき17世紀末には国中に広がった。ただし18世紀でも山城地方など村頭と神主に日常、戦国時代以来の郷侍の家に祭礼時の帯刀を認めた例はある。しかし、百姓に日常帯刀は認めないという秀吉の刀狩りの原則は貫徹していたが、やがて豊かになった百姓により金で帯刀権は買えるようになり帯刀者は増えていき原則は一部崩れていく。だが、二本差し帯刀が身分表象であることは残る。しかし、農村と町民には蓄えられた膨大な武器があった[20]

徳川綱吉の治世で行われた諸国鉄砲改めでは、村によってかなりのばらつきがあるものの、領内の百姓所持の鉄砲数が武士の鉄砲数をはるかに上回るような藩が多くあった[21][22]

ただし内戦状態が解消して安定状態がもたらされた江戸時代には、一揆が起きても鉄砲や弓矢といった飛び道具の持ち出しは19世紀前半の幕末になるまでは自粛されており、統治者と民衆の間で一定の妥協が成立していた[23]
近代以後の刀と銃規制

明治時代には近代国家を目指した規制がされ、士族を含めた国民に公然とした帯刀を禁ずる廃刀令が出される。だが没収や所有を禁じたものではなかった。大礼服着用時と軍人、警察、官吏の勤務中の制服着用時のみ身分表象として帯刀を許した。銃については1872年(明治5年)銃砲取締規則を制定して免許した銃以外の所有を禁じた[24]

国民に所有される膨大な武器が大きく削減するのは、太平洋戦争敗戦後の、連合国軍最高司令官総司令部の占領政策による。1946年(昭和21年)に「銃砲等所持禁止令」が施行され、狩猟用や射撃競技用以外の銃器類と、美術用以外の日本刀を所持することができなくなった。これらは没収後の保管場所から「赤羽刀」とも通称され、これにより300万もの刀剣が没収されたと文化庁は述べた。没収喪失した中には占領軍を恐れてやみくもに出された名刀も多く含まれた。また「GHQが金属探知機で探しにくる」という流言から、所有者が刀剣を損壊・廃棄したり、隠匿により結果腐朽させてしまったりした。それまでの銃刀の所有世帯への政策は占領終結後もほぼ引き続き行われ、禁止令が改められた銃砲刀剣類所持等取締法による許可・登録制と治安を重点とした対策となった。警察により、一層武器の取締りが厳しくなったが、1999年(平成11年)の段階で銃刀法による登録は、刀は231万2千本、銃器は6万8千挺に上る。太平洋戦争前の国民の所有する刀は計約500万本であり、敗戦直後には1500万世帯だったので戦前には平均3軒に1軒は刀を所有して身辺に存在していたことになり、明治時代の刀狩りが武装解除ではなかった象徴と言える[25]。その後、犯罪対策で、特に銃器関連は厳しくなり所持するには通常少なくとも数か月期間の審査を受けることが必要となった。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ これ以前の中世社会では、刀を仏にささげる宗教行為が一般化しており、前述した北条泰時の僧侶と従者の腰刀禁止の際や、1185年文治元年の奈良大仏の鎌倉再建の開眼供養会でも境内の熱狂した庶民が貴重品だった腰の刀を舞台に捧げている[12]

出典^ a b 「刀狩り」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』
^ 藤木久志「刀狩令」『日本史大事典』 2巻、平凡社、1993年。 
^ 鈴木 2000, p. 65.
^ a b 鈴木 2000, pp. 20?54.
^ 高橋昌明『武士の日本史』2018年、p.135-137<岩波新書>
^ a b 藤木 2005, pp. 25?38.
^ ルイス・フロイス 著、松田毅一;川崎桃太 訳『完訳フロイス日本史』 12巻、中央公論新社、182頁。 
^ 「 ⇒第二節 織田期の大名、二 一向一揆の越前支配 国中一揆の蜂起」『福井県史 通史編3 近世1』1982年。 ⇒http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-01-02-01.htm。 
^刀狩コトバンク


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