函館市
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たとえば続縄文時代碧玉管玉の出土はその例である[33]

箱館は天然の良港で、江戸時代から松前、江差とともに「松前三港」または「蝦夷三湊」と和人に呼ばれたところで[34]、海産物交易の集積地として栄えてきた[34]寛政11年(1799年)、江戸幕府ロシア帝国南下政策に対して蝦夷地直轄領とし、箱館に奉行所が置かれることになった[34]

安政元年(1854年)、日米和親条約の締結により幕府は箱館と下田の開港を決定、安政6年(1859年)には長崎、横浜とともに日本国内初となる対外貿易港として開港した[34]。当初は箱館でも出島方式の外国人居留地が計画されたが、失敗に終わって市中に混在することになり[34]、それが異国情緒豊かな街並みとして残り、現在に至っている[34]。明治時代になると箱館から「函館」へ改称して開拓使函館支庁が置かれ、函館県庁、北海道函館支庁と変遷していき、周辺には外国公館や公会堂が建ち並んでいった[34]

函館のまちはしばしば大火に見舞われているが[35]1878年(明治11年)と1879年(明治12年)に起こった大火による復興のための市区改正事業により、幅員20間の防火線街路として二十間坂と基坂を拡幅し、幅員6間や12間の街路が直通して矩形の街路が誕生した[34]1907年(明治40年)、1921年(大正10年)大火後の復興では、1階が和風建築で2階が洋風建築の和洋折衷建築が多く建てられ、函館の特徴的な景観になっている[36]

1905年(明治38年)に調印されたポーツマス条約によって日本が北緯50度以南の樺太を獲得し、ロシア帝国が日本海オホーツク海ベーリング海漁業権を許与すると[37]、昭和の戦前期にかけて北洋漁業の基地として最盛期を迎えた[37]終戦直後から1952年(昭和27年)まで北洋漁業ができなかったが、その間にイカ釣り漁と水産物加工業が台頭した[38][39]

北洋漁業の将来に不安のあった函館市は「工業生産都市」への転換を計ろうとするが[40]オイルショックによって「工業都市化」や「経済開発」重視から市民の「生活環境」重視へと転換していった[40]。特に、函館山の自然保護と歴史的環境を活用した観光政策に大きな力を注いでいった[40]。また、函館の地域特性を活かすため、2003年(平成15年)に「函館国際水産・海洋都市構想」を策定[41]、「マリン・フロンティア科学技術研究特区」として構造改革特別区域に認定されるなど、産学官の連携強化による新たな都市形成を目指している[42]
略年表

「函館市の概要」「函館市紹介」「函館市の歴史」参照[18][43][44]函館港#歴史」も参照
有史来

縄文時代:旧南茅部町あたりで縄文文化がおよそ7千年に渡って栄えた。この時代に作られた国宝「中空土偶」は尾札部町で出土している[45]

斉明天皇4年(658年):日本書紀の記述によれば、武人の阿倍比羅夫が「渡嶋蝦夷」(北海道の続縄文文化人)と共に「粛慎」(オホーツク文化人)を排除したという

大治元年(1126年):天台宗の僧・良忍の伝説がある。

保延年間(1135年 - 1141年):船魂神社創建。

永仁04年(1296年) : 日蓮宗の僧・日持が来訪する。日持の経石がある。

享徳03年(1454年):河野政通が宇須岸(ウスケシ)に館を築く。館が箱の形に似ていることに因んでこの地を「箱館」と呼んだとされている。

長禄元年(1457年):コシャマインの戦いアイヌが箱館を攻略。

永正09年(1512年):ショヤコウジ兄弟の戦いにより箱館を攻略。その後、和人は亀田(現在の万代町付近)に移る。

江戸時代

慶長18年(1613年):松前藩が亀田に番所を置く(後に亀田奉行所となる)。

元禄13年(1700年)頃:亀田港が亀田川の土砂で埋まる。以後、箱館が栄え始める。

寛政05年(1793年):ロシアの使節アダム・ラクスマンが来航。漂流民大黒屋光太夫らを受け取る。

寛政08年(1796年):高田屋嘉兵衛蝦夷地に来航。

寛政11年(1799年):高田屋嘉兵衛が択捉航路を開設。翌年に漁場を開く(北洋漁業の礎)。

寛政12年(1800年):伊能忠敬が箱館山(函館山)で測量を開始。

享和02年(1802年):江戸幕府徳川家斉蝦夷奉行所を設置(後に箱館奉行所と改称)。

文化04年(1807年):蝦夷地が幕府直轄となり、箱館奉行所を廃止して松前奉行所を設置。

文化08年(1811年):クナシリ島(国後島)で捕らえられたロシア船艦長ゴローニンが箱館に送られる(ゴローニン事件)。

文化10年(1813年):ロシア軍艦ディアナ号が来航、高田屋嘉兵衛の斡旋によりゴローニン釈放。

文政04年(1821年):幕府が蝦夷地を松前藩に返還(松前奉行所の廃止)。

安政元年(1854年):日米和親条約によって箱館港が補給港となる。


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