古文書に見える社名は次のとおり。 出雲大社はいわゆる国譲りの事情のもとで創建された[2]。867年(貞観9年)には正二位に叙せられ熊野大社とは別に出雲国一宮と称せられるようになった[2]。中世には12郷7浦を領したが、豊臣秀吉により減じられ5郷2浦となった[2]。1871年(明治4年)に官幣大社に列格の後、大正時代に勅祭社となった。 出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。以下はその主なものである。 以上のように、伝承の内容や大社の呼び名は様々である。共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえる。 また、出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされている。 出雲国造新任時に朝廷で奏上する出雲国造神賀詞では「大穴持命(大国主大神)」「杵築宮(出雲大社)に静まり坐しき」と記載があるので、この儀式を行っていた平安時代前期までの祭神は大国主神であった[14]。 やがて、神仏習合の影響下で鎌倉時代から天台宗の鰐淵寺と関係が深まり、鰐淵寺は杵築大社(出雲大社)の神宮寺も兼ねた。鰐淵寺を中心とした縁起(中世出雲神話)では、出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としていた[14][15](本来国引きは八束水臣津野命)ことから、中世のある時期から17世紀まで祭神が素戔嗚尊[注 2]であった。14世紀「当社大明神は天照大御神之弟、素戔嗚尊也。八又の大蛇を割き、凶徒を射ち国域の太平を築く。」と杵築大社(出雲大社)の由来が記され、1666年(寛文6年)毛利綱広が寄進した銅鳥居に刻まれた銘文には「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と記された。 さらには、鰐淵寺の僧侶が経所で大般若経転読を行い、社殿では読経もした[16]。また、江戸時代初期には社僧が寺社奉行と杵築大社(出雲大社)の運営管理に関する交渉を実施していた。 ところが、杵築大社(出雲大社)内は仏堂や仏塔が立ち並んで神事が衰微した。このため1667年(寛文7年)の遷宮に伴う大造営の時、出雲国造家が神仏分離・廃仏毀釈を主張して寺社奉行に認められた。仏堂や仏塔は移築・撤去され、経蔵は破却された[16]。これに併せて祭神は須佐之男命から、『古事記』『日本書紀』などの記述に沿って大国主大神に復した。 1871年 (明治4年)に近代社格制度において官幣大社に列された。 祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。ただし『出雲国風土記』ではこの名ではなく大穴持命または所造天下大神大穴持命となっている[17]。 1142年(康治元年)在庁官人解状に「天下無双之大廈(たいか)、国中第一之霊神」と記された[注 3]。神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり[注 4]神議が行われる[注 5](神在祭 旧暦10月11日 - 17日)[18]。出雲へ行かず村や家に留まる田の神・家の神的な性格を持つ留守神(荒神等)も存在しているので、全ての神が出雲に出向くわけではない[19]。 そのような神集[注 6]への信仰から、江戸時代以降は文学[注 7]にも出雲の縁結びの神として現れるほどに、全国的な信仰を集めるようになった。
天日隅宮(『日本書紀』)[8]
杵築宮(『釈日本記』)
出雲宮(『八雲御抄』)
厳神之宮・いつかしのかみのみや(『日本書紀』)[9]
出雲大神宮(『日本書紀』)[10]
杵築大神宮(『和漢三才図会』)
所造天下大神宮(『出雲国風土記』)[11]
大社杵築大神宮(『国花万葉記』)
杵築大社(『延喜式』)[12]
出雲国大社(『享保集成総論』)
日本大社(真言宗正林寺蔵版木)
天日栖宮(『出雲国風土記』)
出雲石(石同)之曽宮(『古事記』)[13]。
歴史
創建
大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)
高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴命に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)
所造天下大神(=大国主神)の宮を奉るため、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)
神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)
垂仁天皇の皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらに唖であった。占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようになった。奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた。(『古事記』)
659年(斉明天皇5年)、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。(『日本書紀』)[注 1]
祭神の変化
近代
祭神
大国主大神
祭神の別名
大穴牟遅神(おおあなむちのかみ)『古事記』での表記
杵築神(きづきのかみ)『日本文徳天皇実録』での表記
国造神(くにつくらししかみ)『大隅国風土記』での表記
大穴六道尊(おおあなむちのみこと)『土佐国風土記』での表記
大国魂神(おおくにたまのかみ)『日本総国風土記』での表記
所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)
大地主神(おおとこぬしのかみ)
大国魂神 『古語拾遺』での表記
大穴持命(おおあなむちのみこと)『出雲国造神賀詞』『出雲国風土記』『伊予国風土記』での表記
宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)
廣矛魂神(ひろほこみたまのかみ)
大国玉神(おおくにたまのかみ)『日本書紀』での表記
倭大物主櫛甕玉神(やまとおおものぬしくしかみたまのかみ)
国作之大神(くにつくらしのおおかみ)
国作坐志大穴持命(くにつくりまししおおむなちのみこと)『出雲国造神賀詞』での名。
国堅大神(くにかためまししおおかみ)
国占神(くにしめたまいしかみ)
出雲大神(いずものおおかみ)
芦原志拳呼命 『播磨国風土記』での表記
Size:114 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef