出雲大社
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倭大物主櫛甕玉神(やまとおおものぬしくしかみたまのかみ)

国作之大神(くにつくらしのおおかみ)

国作坐志大穴持命(くにつくりまししおおむなちのみこと)『出雲国造神賀詞』での名。

国堅大神(くにかためまししおおかみ)

国占神(くにしめたまいしかみ)

出雲大神(いずものおおかみ)

芦原志拳呼命 『播磨国風土記』での表記

大汝命(おおなむぢのみこと)

兵主神(ひょうずのかみ)

農耕祖神(たづくりのおやのかみ)

幽冥事知食大神(かくりごとしろしめすおおかみ)

縁結神(えんむすびのかみ)、福神(ふくのかみ)、天下地主神(あめのしたとこぬしのかみ)、大国作神(おおくにつくらししかみ) 出雲や出雲大社での神名[20]

祭祀

創建以来、天照大御神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきたとされるが、本来出雲国造家は東出雲の熊野大社の社家であった。現在の宮司は84代国造千家尊祐で、國學院大學を卒業後に太宰府天満宮を経て出雲大社禰宜→権宮司と昇格すると、2002年平成14年)宮司に就任。翌年、神社本庁より神職身分特級を拝受している。また、宮司の正服の紋様は神社本庁の定める黒綾文輪なし裏同色平絹ではなく、黒綾にご神紋である二重亀甲剣唐花の文様を練り込んだものである。約60年に一度行われている本殿の建て替えに際して、神体が仮殿に遷御された後に、本殿の内部および大屋根が公開されることがある。

神紋(二重亀甲に剣唐花)

天皇親拝

「現在も、皇室の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けている」ともされるが、次の通り天皇の出雲大社親拝の記録がある。

1965年(昭和40年)5月1日、天皇昭和天皇)・皇后香淳皇后)出雲大社親拝[21]

2003年(平成15年)10月3日、天皇明仁上皇)・皇后美智子上皇后)出雲大社親拝[22]

出雲国造家

出雲国造は、天照大御神の第二御子の天穂日命(あめのほひのみこと)の神裔である。

第十二代?濡渟命(宇迦都久怒
)より祭祀以外に出雲国の政治も兼ねる事になる。

第十三代襲髄命(野見宿禰)は相撲の祖と称えられる。

第十七代宮向国造の時に出雲臣姓を賜る。

第二十五代廣嶋国造は『出雲国風土記』を編纂。

第三十一代千国国造の時代から、地方政治の面から退き、祭祀のみ携わる事になる。これより国造新任時や遷都時には朝廷へ参向し、天皇の大前にて神賀詞を奏上する。

第五十三代孝時国造は後醍醐天皇に神剣一振献上[23]

千家家と北島家

出雲大社の祭祀者である出雲国造家は、南北朝時代の康永年間に千家家と北島家の2家に分裂した[24]。その祭事は幕末までは両家が二分して行っていたが、明治以降は千家家が執り行っている。
千家家(出雲大社教
1872年(明治5年)に出雲大社宮司の千家尊福が出雲大社崇敬講社を結成[2]。1882年(明治15年)に政府の方針で神職教導職の兼務が認められなくなったため、千家尊福は宮司職を弟の千家尊紀に譲って教化活動に専念[25]。出雲大社教院は出雲大社そのものから分離して教派神道の一つとなった[2]。第二次世界大戦後、神社が国の管理を離れたことから再び出雲大社と密着する形に至った[2]
北島家(出雲教
1872年(明治5年)に北島脩孝が千家尊福とともに出雲大社崇敬講社を結成[26]。1882年(明治15年)に出雲教会を設立した[26]。第二次世界大戦後、1952年に宗教法人法に基づく独立した宗教法人出雲教となった。

以上のように大国主大神を主祭神とする宗教団体として、千家家が出雲大社教、北島家が出雲教を主宰している。

1951年昭和26年)4月に出雲大社と教派神道の宗教法人出雲大社教は一体化され、出雲大社の職員は出雲大社教の職員を兼務し、出雲大社宮司は出雲国造として出雲大社教を総攬し、出雲大社教の教務本庁は出雲大社の教務部として活動している[27]
出雲屋敷地鎮祭

本来は出雲の氏子のみを対象に行っていた祭礼。[28]現在では、他県から訪れるものも、神殿において、地鎮祭の式典が行われ、新築や増築工事に対する地鎮祭が行われる。[28]その地鎮祭を出雲屋敷地鎮祭という。[28]式典後、土地に鎮める「御土」「鎮め物」、また中央、四方、五カ所の柱に貼る御札を頂き、それを五柱御札という。[28]土地や建物の穢れをなくし、鬼門という考え方もいっさいなくなる式典となる。[28]※神語三唱や御神土埋納、四拍手など特殊性がある。出雲屋敷後、年々多少の初穂を献納する出雲年貢を行う地域がある[29]
施設国立公文書館所蔵「出雲大社絵図」(1875年〈明治8年〉ごろ作成)国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成)出雲大社境内案内図2022年5月時点
本殿

玉垣、瑞垣(廻廊)、荒垣の三重の垣根に厳重に守護されている。本殿内北西には御客座五神(天之御中主神高御産巣日神神産巣日神宇摩志阿斯訶備比古遅神天之常立神)が祀られている。大国主大神の御神座は本殿内北東にあり、正面である南側ではなく西側を向いている[30]。(なお、本殿瑞垣外ではあるが、本殿の真後ろには、八雲山との間に唯一鎮座する社として、須佐之男命を祀る出雲神社「素鵞社、そがのやしろ。式内社」がある。)この理由には諸説があり、そのうちの1つは寛文6年(1666年)に長州の大名・毛利家が寄進した出雲大社の荒垣入口の銅鳥居に刻まれた銘に、「一を日神といい、二を月神といい、三を素戔嗚というなり。日神とは地神五代の祖天照太神これなり。月神とは月読尊これなり。素戔嗚尊は雲陽の大社の神なり」とあり、出雲大社の祭神がスサノオ尊とされていた時代があり、参拝者は大国主ではなくスサノオ尊を正面から拝むようになっている、とする説である。また、「本殿が古代の高床建物高床住居高床倉庫)とほぼ同じ構造になっているため、高床建物における入口と最上席の配置と向きの関係から、御神座は西側を向くことになるため」との説もある。天井には7つの雲の絵が描かれている。現在の本殿は1744年(延享元年)に建てられたもので、高さは8(およそ24m)と、神社としては破格の大きさである。

本居宣長が『玉勝間』に引いたところによれば、かつての本殿は現状の倍ほどもあり、中古平安時代)には16丈 (48m)、さらに上古(神代の後、平安より前)には32丈(およそ96m)であった、という伝承があるとされる。同じ出典にある、「金輪造営図」と併せて想定される姿は大変不思議なもので、空に向かって延びた何本もの柱の上に社が建つというものになる。上古については流石に神話と看做すとしても、16丈あったとすると東大寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈≒45m)や平安京大極殿より大きかったということになる。

この説については賛否両論あり、肯定する意見としては、平安時代に源為憲によって作られた『口遊』で数え歌に歌われていることが論拠に挙げられる。これは「雲太、和二、京三=出雲太郎、大和次郎、京三郎」というもので、「雲太、和二、京三。今案、雲太謂出雲国城築明神神殿。和二謂大和国東大寺大仏殿。京三謂大極殿、八省。」を元にしている。ただし異論として。その後に続く数え歌を考慮すると、高さの順を表したものではなく、神社(神)、寺院(仏)、住宅(人)の順を著しているとの説や、複数の記録により、複数回倒壊していることがわかっていること(『百錬抄』『左経記』『千家家古文書』『中右記』『北島家文書』などの記述によれば、平安中期から鎌倉時代初めまでの約200年間に7度も倒壊している)といった傍証が挙げられている。上古32丈についても、山に建てたものについて、その標高を述べたものと附会すれば、不自然では無いという意見もある。高層建築が必要とされたのは別天津神の祭祀と関係があるとする説もある[31]


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