出雲大社
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鰐淵寺を中心とした縁起(中世出雲神話)では、出雲の国引き国作りの神を素戔嗚尊としていた[14][15](本来国引きは八束水臣津野命)ことから、中世のある時期から17世紀まで祭神が素戔嗚尊[注 2]であった。14世紀「当社大明神は天照大御神之弟、素戔嗚尊也。八又の大蛇を割き、凶徒を射ち国域の太平を築く。」と杵築大社(出雲大社)の由来が記され、1666年寛文6年)毛利綱広が寄進した銅鳥居に刻まれた銘文には「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と記された。

さらには、鰐淵寺の僧侶が経所で大般若経転読を行い、社殿では読経もした[16]。また、江戸時代初期には社僧寺社奉行と杵築大社(出雲大社)の運営管理に関する交渉を実施していた。

ところが、杵築大社(出雲大社)内は仏堂仏塔が立ち並んで神事が衰微した。このため1667年寛文7年)の遷宮に伴う大造営の時、出雲国造家が神仏分離廃仏毀釈を主張して寺社奉行に認められた。仏堂や仏塔は移築・撤去され、経蔵は破却された[16]。これに併せて祭神は須佐之男命から、『古事記』『日本書紀』などの記述に沿って大国主大神に復した。
近代

1871年 (明治4年)に近代社格制度において官幣大社に列された。
祭神
大国主大神

祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。ただし『出雲国風土記』ではこの名ではなく大穴持命または所造天下大神大穴持命となっている[17]

1142年康治元年)在庁官人解状に「天下無双之大廈(たいか)、国中第一之霊神」と記された[注 3]。神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり[注 4]神議が行われる[注 5](神在祭 旧暦10月11日 - 17日)[18]。出雲へ行かず村や家に留まる田の神・家の神的な性格を持つ留守神(荒神等)も存在しているので、全ての神が出雲に出向くわけではない[19]

そのような神集[注 6]への信仰から、江戸時代以降は文学[注 7]にも出雲の縁結びの神として現れるほどに、全国的な信仰を集めるようになった。
祭神の別名

大穴牟遅神(おおあなむちのかみ)『
古事記』での表記

杵築神(きづきのかみ)『日本文徳天皇実録』での表記

国造神(くにつくらししかみ)『大隅国風土記』での表記

大穴六道尊(おおあなむちのみこと)『土佐国風土記』での表記

大国魂神(おおくにたまのかみ)『日本総国風土記』での表記

所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)

大地主神(おおとこぬしのかみ)

大国魂神 『古語拾遺』での表記

大穴持命(おおあなむちのみこと)『出雲国造神賀詞』『出雲国風土記』『伊予国風土記』での表記

宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)

廣矛魂神(ひろほこみたまのかみ)

大国玉神(おおくにたまのかみ)『日本書紀』での表記

倭大物主櫛甕玉神(やまとおおものぬしくしかみたまのかみ)

国作之大神(くにつくらしのおおかみ)

国作坐志大穴持命(くにつくりまししおおむなちのみこと)『出雲国造神賀詞』での名。

国堅大神(くにかためまししおおかみ)

国占神(くにしめたまいしかみ)

出雲大神(いずものおおかみ)

芦原志拳呼命 『播磨国風土記』での表記

大汝命(おおなむぢのみこと)

兵主神(ひょうずのかみ)

農耕祖神(たづくりのおやのかみ)

幽冥事知食大神(かくりごとしろしめすおおかみ)

縁結神(えんむすびのかみ)、福神(ふくのかみ)、天下地主神(あめのしたとこぬしのかみ)、大国作神(おおくにつくらししかみ) 出雲や出雲大社での神名[20]

祭祀

創建以来、天照大御神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきたとされるが、本来出雲国造家は東出雲の熊野大社の社家であった。現在の宮司は84代国造千家尊祐で、國學院大學を卒業後に太宰府天満宮を経て出雲大社禰宜→権宮司と昇格すると、2002年平成14年)宮司に就任。翌年、神社本庁より神職身分特級を拝受している。また、宮司の正服の紋様は神社本庁の定める黒綾文輪なし裏同色平絹ではなく、黒綾にご神紋である二重亀甲剣唐花の文様を練り込んだものである。約60年に一度行われている本殿の建て替えに際して、神体が仮殿に遷御された後に、本殿の内部および大屋根が公開されることがある。

神紋(二重亀甲に剣唐花)

天皇親拝

「現在も、皇室の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けている」ともされるが、次の通り天皇の出雲大社親拝の記録がある。


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