出雲国
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7世紀末の藤原宮跡や出雲国庁跡出土の木簡から、出雲国では、出雲評・楯縫評・大原評などの存在が知られ、『日本書紀』斉明5年(659年)には「於友郡」がみえるが、編者の潤色で、意宇郡の前身として意宇評がこの時期にはすでに置かれていたことが分かる。

平安期には東部出雲(意宇郡)を朝廷に没収された出雲国造家は今の出雲大社がある西部出雲に中心を確定する。
中近世の沿革

鎌倉時代には、承久3年(1221年6月承久の乱の功により宇多源氏佐々木氏佐々木義清が封ぜられて以降、その子・佐々木泰清に引き継がれ、泰清の三男にあたる塩冶氏が代々守護を務めた。出雲守護の武将塩冶高貞は、元弘の乱後醍醐天皇を助け鎌倉幕府を打倒することに功績があった。

南北朝時代/室町時代初頭には、出雲守護の塩冶高貞は北朝室町幕府についたが、興国2年/暦応4年(1341年)に初代将軍足利尊氏の弟足利直義から謀反の疑いをかけられて誅殺され、塩冶氏は没落した。しかし、代わりに同族佐々木氏でもより嫡流に近い京極氏が出雲守護として入り、室町時代も引き続き宇多源氏佐々木氏による支配が続いた。

東部出雲は荘園守護の管轄下となり、戦国時代には、月山富田城(現:安来市広瀬町富田)を中心とし製鉄を支配し雲伯地方を押さえた戦国大名尼子氏を生み出すこととなる。

江戸期に入ると、松江藩が設置され東部出雲は松江、西部出雲は出雲国造の影響下に入ることとなる。更には、松江藩傘下の東部では明治期に見られた廃仏毀釈の逆の影響が認められたりもする。つまり上古より同じ出雲でも、東西の主権が別々の歴史的見解を残すため、出雲の歴史はわかりづらいものとなっているとの指摘がある。

伝統産業であった製鉄で財を成した出雲三名家(田部家、桜井家、絲原家)は、現在も島根県下の実力者である。
近世以降の沿革

「旧高旧領取調帳データベース
」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り[注釈 3](504村・304,726石余)。太字は当該郡内に藩庁が所在。

島根郡(51村・26,930石余) - 松江藩

秋鹿郡(20村・11,308石余) - 松江藩

楯縫郡(23村・15,835石余) - 松江藩

出雲郡(19村・23,437石余) - 松江藩

神門郡(93村・75,195石余) - 松江藩、広瀬藩

飯石郡(53村・23,724石余) - 松江藩、広瀬藩

仁多郡(72村・21,557石余) - 松江藩

大原郡(58村・26,844石余) - 松江藩

能義郡(77村・45,591石余) - 松江藩、広瀬藩母里藩

意宇郡(38村・34,299石余) - 松江藩、広瀬藩


明治4年

7月14日1871年8月29日) - 廃藩置県により松江県広瀬県母里県の管轄となる。

11月15日(1871年12月26日) - 第1次府県統合により、全域が島根県の管轄となる。


国内の施設
国府

和名抄』によれば国府は意宇郡にあり、松江市大草町に国府跡が発掘され公開されている(かつては現在の阿太加夜神社(松江市東出雲町出雲郷)周辺という説もあった)。『出雲風土記』に意宇郡家や黒田駅家と同所だと記され、松江市大草町の六所神社周辺が国庁跡とされている。発掘調査で、多数の掘立柱建物跡、「大原評□磯部安□」と記された木簡、「駅」・「少目」などと記された墨書土器、硯・分銅・瓦などが出土した。建物遺構は7世紀後半から9世紀にかけて六時期の変遷が認められ、7世紀後半まで溯る国庁のもっとも古い例の一つだとされている。
国分寺・国分尼寺
出雲国分寺跡
国府跡北東の
松江市竹矢町に存在する遺跡から南門・中門・金堂・講堂・僧坊などの遺構が発見され、東大寺式伽藍配置であることが判明した。

尼寺跡は国分寺跡の東にあり、建物の礎石や築地が設置されていたであろう跡、溝などの遺構が検出されている。
神社
延喜式内社
延喜式神名帳』には、大社2座2社・小社185座の計187座が記載されている。大社2社は以下に示すもので、いずれも名神大社である。出雲国の式内社一覧を参照。

意宇郡 熊野坐神社 (現 熊野大社、松江市八雲町熊野)

出雲郡 杵築大社 (現 出雲大社、出雲市大社町杵築東)

総社一宮以下


総社 六所神社 (松江市大草町)

一宮 出雲大社 - 古代には熊野大社の方が上位で一宮とされていたが、中世に逆転し、出雲大社が一宮とされるようになった。

二宮以下は存在しないとみられるが、佐太神社(松江市鹿島町佐陀宮内)を二宮とする説がある。

10月の異称の「神無月」は、その宛字から「神がいない月」と解釈され、全国の八百万の神々がこの月に出雲に集結し、縁結びなどの会議(神議り)をするという伝承がある。これは中世以降、出雲大社の御師が全国に広めた説であるが、現在でも出雲では10月を「神在月」と呼び、出雲大社ほかいくつかの神社では旧暦10月10日ごろに神を迎える祭、その1週間後に神を送り出す祭が行われる。
地域


意宇郡 「おうぐん」と読む。初期には「いう」とも発音された。

能義郡 「のぎぐん」と読む。意宇郡から分かれて成立した。

島根郡 「しまねぐん」と読む。

秋鹿郡 「あいかぐん」と読む。

楯縫郡 「たでぬいぐん」と読む。

出雲郡 「いずもぐん」と読む。中世には「出東郡(しゅっとうぐん)」と書かれた。

神門郡 「かんどぐん」と読む。

飯石郡 「いいしぐん」と読む。古くは「いひし」と表記。

仁多郡 「にたぐん」と読む。

大原郡 「おおはらぐん」と読む。

江戸時代の藩

松江藩、堀尾家(24万石)→京極家(24万石)→越前松平家(18.6万石)

広瀬藩(松平松江藩支藩、3万石→1万5千石→2万石→3万石)

母里藩(松平松江藩支藩、1万石)

松江新田藩(松平松江藩支藩、1万石)→本藩に戻る

人物
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この節の加筆が望まれています。

出雲守

忌部子人和銅3年(710年)任官

船秦勝霊亀2年(716年)任官

百済王敬福天平宝字元年(757年)任官

藤原清縄弘仁3年(812年)任官


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