正税は田の面積を基準とし、その徴収は戸籍の作成、班田など煩雑な事務を経る必要があったのに対し、公出挙は簡素な事務で多額の税収を安定して確保できた。
律令政府は、公出挙の負担により百姓が疲弊し始めたことを知り、720年(養老4年)3月、公出挙の利子率の低減(年利50% → 30%)、および養老2年以前に生じた全ての債務の免除を決定し、諸国へ通知した。
しかし、ほどなくして公出挙の利子率は50%へ戻された。更に745年の国司の給与の財源として公廨稲が正税から分離されて、出挙の運用原資として用いられるようになった事で出挙と国司の収入が直接関係するようになると、むしろ公出挙は益々盛んになった。その後、奈良末期?平安初頭にかけて桓武天皇は大規模な行政改革の一環として公出挙の利子率を再び年利30%へ引き下げた。 この節の内容の信頼性について検証が求められています。 平安期にはいると、正税と並んで公出挙が主要な地方財源となっていった。これに伴い、平安前期の弘仁貞観期(9世紀)には、政府の租税方針も律令が当初想定していた人への課税から土地への課税へと転換していき、例えば、土地に対して公出挙の納入義務が課せられるような事例も見られた。 地方機関の倉庫(正倉)には正税を備蓄し、地方機関が備蓄米を公出挙により運用することとされていた。しかし、公出挙のウェイトが大きくなってくると、地方機関の出挙運用に様々なトラブルが起こるようになり、利稲を確保できない状況も生じていた。このころには地方機関による公出挙の他、地域の富豪・有力百姓ら(田堵など)も零細百姓らを対象に私出挙を行うようになっており、9世紀には広範囲の国で、公出挙と私出挙を組み合わせた租税徴収方法が模索されていた。これは、公出挙の貸付先として利払いが滞りがちな小規模広範囲の百姓ではなく、大規模で少数の有力百姓等を指定し、彼らが公出挙により受け取った本稲(元本の稲)を私出挙の財源とすることを認めたものであった。彼らは年利30%で公出挙の本稲を借り受け、年利50%で貸し付けることにより20%の利息を得ることとなった。 更に9世紀後半には、地域の富豪・有力百姓らの私倉を正倉と認め(里倉
平安初期の出挙.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}
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このような状況の下、公出挙と不可分の存在となった私出挙も半強制的に行われていた。私出挙においては、借受側の百姓らの宅地・耕地・奴婢などが担保とされていたが、高利のため返済できない例も多く、担保物件は貸与側の所有へと移転(質流れ)することとなり、富の集中・蓄積が進んでいった。このようにして、平安中期ごろには、富豪層による地域支配が徐々に拡がり始めていき、これが中世の萌芽へつながって行った。 この節の内容の信頼性について検証が求められています。 延喜年間に里倉負名体制は負名体制に移行し、公的租税としての正税及び公出挙に代わり官物として一括して土地に賦課する方式となった。11世紀中期には官物の税率が公田官物率法により「段別三斗」に固定化され土地税としての性質が強まり、荘園公領制の展開に伴って荘園領主への貢納のうち、国衙領でいう官物にあたるものが年貢と呼ばれるようになる。 一方、在地領主・富豪・有力百姓らが新たな支配層として台頭していたが、彼らによる私出挙は、私的租税の一つとして存続していた。鎌倉期ごろから貨幣経済が発達していくと、それまでの稲の出挙ではなく、金銭の出挙が行われるようになった。これを利銭出挙(りせんすいこ)という。 中世においても、出挙は、単なる利子付き貸借にとどまらず、租税という面も持っていた。これはすなわち、出挙を行えるのは支配層に限られていたこと、支配層も自らが支配する範囲内でのみ出挙を行えたこと、を表している。 貨幣経済の進展によって出現したのは利銭出挙だけではなかった。純粋な商行為である貸付金融も生まれることとなった。鎌倉後期ごろから次第に貸付金融が主流となっていき、室町期ごろに利銭出挙は消滅した。利稲出挙は、中世後期になっても存続しており、戦国期の史料に出挙の記事のあることが知られている。しかし、織豊期になると、太閤検地などを通じて土地所有関係が大きく整理されたため、出挙は近世に入るまでに消滅したとされている。
中世期の出挙
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脚注・参考文献[脚注の使い方]^ 三上喜孝「古代の出挙に関する二、三の考察」笹山晴生 編『日本律令制の構造』(吉川弘文館、2003年 P117 - 142)