出崎統
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貸本漫画全盛期をよく知る漫画家のすがやみつるは、当時の出アの作風を「都会派アクション」と評し、バラリと前髪がたれたハンサムな若者が進駐軍払い下げのグリースガンをぶっ放すマンガばかり描いていた旨を記している[6]。しかし本人曰く、2年生のときに貸本業界の斜陽によって原稿依頼が来なくなったため[7]、一旦漫画から足を洗って、同校卒業後に東芝に就職[8][註 2]。1年半、工場勤務に従事する。
アニメ会社へ入社

1963年のゴールデンウイーク中、虫プロダクションの求人新聞広告を見つけ、同社のアニメーター採用試験を受験[7]。応募約500人中、採用3人という難関を突破する[5]。本人の談によると、当然動画テストの試験はあったが、出アの漫画を読んだことがあった虫プロスタッフの杉井ギサブローが「こいつなら採用しても大丈夫」と強く推したことが決め手だった。杉井はその際の印象を、面接時から独特の世界、明確な作家性、映像言語を持っていたと述懐している[9]

これにより工場勤務を辞め、9月に同社に入社。1月から放送を開始していた初の本格的連続テレビアニメ『鉄腕アトム』の第39話「赤い猫の巻」(9月24日放送)で動画デビューを果たし、第51話「子象プーラの巻」(12月17日放送)では第二原画に昇格[10]。入社3ヵ月ほどで4人の新人スタッフを束ねるポジションを与えられるなどの大抜擢を受ける[11]

1964年、『鉄腕アトム』第66話「スペース・バイキングの巻」(4月4日放送)で原画担当となる[10]。同年、先輩の高木厚に誘われ、アルバイトで東京ムービー制作作品『ビッグX』の絵コンテを担当。この当時から、シナリオを読んでつまらないと感じたら、独断によるストーリー改変を行って絵コンテを描いていた[11]。同じくアルバイト仕事を受けていた杉井らとともに高木の自宅にスタジオを作り、虫プロに通いながらアルバイトをしていたが、やがてこれが虫プロの知るところとなる。

結局、杉井を代表とする有限会社アートフレッシュとして独立することが認められ、虫プロの同僚だった吉川惣司、宇田川一彦、タツノコプロ奥田誠治らとともに8月に同社に参加[註 3]。同社が虫プロの下請けとして受注した『鉄腕アトム』や『悟空の大冒険』で、各話演出/作画監督を担当した。初の公式各話演出作品は1965年3月27日放送の『鉄腕アトム』第112話「サムソンの髪の毛の巻」。

1967年から放送がはじまった『悟空の大冒険』では、各話演出/作画監督の作業と並行して、虫プロ商事発行の月刊誌「COM」にて同作のコミカライズ版を7回にわたって連載[註 4]。この頃に虫プロ内で演出に昇格した高橋良輔は、出アや富野由悠季(当時は喜幸)の仕事を見て彼らの天才ぶりにショックを受け、長期にわたって挫折感の中にいたことを後に語った[12]

1968年、出アが独自性を活かすには「出ア一家」を構えた方がいいとの杉井の判断により、同社を退社してフリーとなる[13][註 5]。1969年には劇場用映画『千夜一夜物語』で原画とストーリーボードを担当[14]。同作の制作終盤には、逼迫する制作進行状況を助けるため構成助手としても関わった。その際にチームワークによる映画作りの面白さに目覚めたと本人は語っていた。その後、日米合作アニメ『フロスティ・ザ・スノーマン?温かい雪だるま』の制作時に杉野昭夫と机を並べて原画を描き、直接的に互いを意識するようになる[15]


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