『ジョー』終了後、1年ほど絵コンテマンとして活動した後、1972年10月にプロデューサーの丸山正雄、おおだ靖夫、作画監督の杉野昭夫とともに、演出の波多正美、原画の川尻善昭ら『ジョー』制作班を引き連れてマッドハウスを設立。直後に東京ムービーから、杉野とのコンビでちばてつやの『ユキの太陽』をアニメ化してほしいと打診があったが、企画段階で頓挫している[20]。結局、マッドハウスのスタッフとして最初に監督(クレジット上は「演出」)した作品は『ジャングル黒べえ』となった。これにより、「本来の仕事」が決まるまでとの約束で引き受けていた創映社制作の『ハゼドン』のチーフディレクター職を、第1話「ハゼドンがやってきた!」の演出のみで降板している[5]。
以後は東京ムービー制作作品『エースをねらえ!』『空手バカ一代』『はじめ人間ギャートルズ』『ガンバの冒険』『元祖天才バカボン』や、ダックスインターナショナル制作の『まんが世界昔ばなし』など、多数の連続テレビシリーズを手がけた。当時の東京ムービー作品では、東京ムービーから資金援助を受けて設立された虫プロ系のマッドハウスと、東京ムービーとは業務提携関係にあったAプロダクション(元東映動画のスタッフで構成)がつねに同一作品に参加していた。両者間には激しいライバル意識が存在していた[21]が、Aプロ主力の一人だった芝山努が『ガンバ』『元祖』の制作を通じて出ア演出に触れるうち、虫プロ的作風である「少ない動画枚数でメリハリをつけた動き」の追求をするようになる[22]など、出アには大きな影響力があった。『元祖』で初めて出アと仕事をした鈴木清司は、当時の出アはすでにアニメ界ではカリスマ的存在だったと述べている[23]。
これらテレビシリーズと並行して、1974年には井上陽水の「闇夜の国から」のプロモーションフィルムや実写作品『純愛山河 愛と誠』のオープニングなどの短編アニメも制作。「闇夜の国から」のプロデューサーを務めた山本又一朗は、同作品の制作時に出アの並々ならぬ才能を感じたことで、後にプロデュースを担当した劇場用映画『ゴルゴ13』の監督に出アを指名することになる[24]。また1976年にはさきまくら名義で絵を担当し、アリス館から絵本『ドングドンとことだま大王』(ストーリー担当は脚本家の吉田喜昭)を発表するなど、多方面での活動が活発化している。
1977年、日本テレビが「開局25周年記念作品」と銘打ち、テレビアニメとしては空前の制作費を投入して制作した連続テレビシリーズ『立体アニメーション 家なき子』で、総監督と全話の絵コンテを担当。加えて、同作で用いられた、画面が立体的に見える特殊な撮影法の秘密漏洩を避けるため、全カットのレイアウトチェックも一人で担当した(本人の談によれば、クレジットで「画面設定」と表示される大橋学は、実際はレイアウトに携わっていないとのこと)[25]。その後番組『宝島』を経て、1979年、かつての連続テレビシリーズの再編集ではない完全新規制作の劇場用映画『エースをねらえ!』で初の劇場用映画の監督を務めた。『家なき子』『宝島』『劇場版エース』はいずれも後述の杉野、小林、高橋との「出アカルテット」の連携で作られた作品であり、丸山正雄は『劇場版エース』において出アの作風が完成したとの認識を示している[26]。また『劇場版エース』を出アの最高傑作とする評もある[27]。この時代の出アの作品群に刺激され、福島敦子、森本晃司ら多くの人材がアニメ界に身を投じた[28][29]。