出崎統
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1968年、出アが独自性を活かすには「出ア一家」を構えた方がいいとの杉井の判断により、同社を退社してフリーとなる[13][註 5]。1969年には劇場用映画『千夜一夜物語』で原画とストーリーボードを担当[14]。同作の制作終盤には、逼迫する制作進行状況を助けるため構成助手としても関わった。その際にチームワークによる映画作りの面白さに目覚めたと本人は語っていた。その後、日米合作アニメ『フロスティ・ザ・スノーマン?温かい雪だるま』の制作時に杉野昭夫と机を並べて原画を描き、直接的に互いを意識するようになる[15]
1970年代

1970年4月から放送が開始された虫プロ制作の連続テレビシリーズ『あしたのジョー』で、初めて監督(チーフディレクター)を務める。同作の企画は、出アが自ら虫プロの企画室にいた丸山正雄に「どうしてもこれをやりたい」と持ちこんだものであった[16]。出アの「実写を超えた迫力のあるものをつくる」という思いと、脚本家や各話演出家から上がってくるシナリオ、絵コンテには制作意図のズレがあり、出アはそれらの修正作業に時間を取られる。第1話「あれが野獣の眼だ!」で絵コンテを担当して以降、再び自分で1話分の絵コンテを全部描けたのは、第22話「まぼろしの力石徹」からだった[17]。加えて、当時の制作進行を担当した下崎闊(真佐美ジュン)によれば、同作はスタッフ不足により、通常は1班が4週で1話を受け持つのに対し、2週に1本のペースで進められていた[18]。このためスケジュールが非常に逼迫したが、そのなかで出アはさまざまな実験的アイデアを作品に盛り込み、同作を最高視聴率29.2%(本放送時/ビデオリサーチ調べ[註 6])を獲得するヒット作品に押し上げた。富野由悠季は後年、同作に各話演出で参加した際に出アの仕事を見て「日本のテレビアニメ界に天才がいる」と衝撃を受け、年下の出アを大先輩と敬い、頭を下げることができたと述べている[19]

『ジョー』終了後、1年ほど絵コンテマンとして活動した後、1972年10月にプロデューサーの丸山正雄、おおだ靖夫、作画監督の杉野昭夫とともに、演出の波多正美、原画の川尻善昭ら『ジョー』制作班を引き連れてマッドハウスを設立。直後に東京ムービーから、杉野とのコンビでちばてつやの『ユキの太陽』をアニメ化してほしいと打診があったが、企画段階で頓挫している[20]。結局、マッドハウスのスタッフとして最初に監督(クレジット上は「演出」)した作品は『ジャングル黒べえ』となった。これにより、「本来の仕事」が決まるまでとの約束で引き受けていた創映社制作の『ハゼドン』のチーフディレクター職を、第1話「ハゼドンがやってきた!」の演出のみで降板している[5]

以後は東京ムービー制作作品『エースをねらえ!』『空手バカ一代』『はじめ人間ギャートルズ』『ガンバの冒険』『元祖天才バカボン』や、ダックスインターナショナル制作の『まんが世界昔ばなし』など、多数の連続テレビシリーズを手がけた。当時の東京ムービー作品では、東京ムービーから資金援助を受けて設立された虫プロ系のマッドハウスと、東京ムービーとは業務提携関係にあったAプロダクション(元東映動画のスタッフで構成)がつねに同一作品に参加していた。両者間には激しいライバル意識が存在していた[21]が、Aプロ主力の一人だった芝山努が『ガンバ』『元祖』の制作を通じて出ア演出に触れるうち、虫プロ的作風である「少ない動画枚数でメリハリをつけた動き」の追求をするようになる[22]など、出アには大きな影響力があった。『元祖』で初めて出アと仕事をした鈴木清司は、当時の出アはすでにアニメ界ではカリスマ的存在だったと述べている[23]

これらテレビシリーズと並行して、1974年には井上陽水の「闇夜の国から」のプロモーションフィルムや実写作品『純愛山河 愛と誠』のオープニングなどの短編アニメも制作。


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