出島
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^ 『オランダ商館長日記』訳文編3(上) p.229-「(1638年6月15日)...最も主要な人々の首四つは、約四〇〇〇の他の人々の首とともに長崎に運ばれ、そして若干は棒に刺して梟しものにされた...〈中略〉...十六ないし十七歳の肥後生まれの少年により週に二回の彌撒が行われていたが、この少年は彼等の主要人物でしかも首長であると認められ...」
『長崎志 正編』島原一揆征伐之畧記 p.265「一、其後大將四郎大矢野 小左衛門 有江堅物三人ノ首長崎ニ送來リ出島(ポルトガル商館)門前ニ梟首セラル...」
^ 詳細は「オランダ・ポルトガル戦争#VOCの地盤(英語版)」を参照「シンハラ王国とポルトガル王国の紛争#オランダの関与(1638年?1658年)(英語版)」も参照
^ 台湾東南アジアから渡航する中国人が直接長崎に来航しても問題ないこと、オランダがスペインとポルトガルに妨害されず長崎に来航できること、台湾に渡航する中国人を通じてオランダが日本が求める輸入品を確保でき且つ台湾に渡航する中国人が明朝の渡航証明書を持っていることなどを確認。
^ 川原慶賀。元日の晩餐に長崎役人及び蘭通詞を招くのがカピタン de Sturler [24][25][26]の慣わしだったが、この画は1825年Johanna Elisabeth号が8月25日に入港したので10月8日に催された本来8月24日のウィレム1世誕生日奉賀行事の模様、鳥型の装飾品附き天井ランプや壁に掛けられた額縁入りの風景画・グリフォン柄の壁紙など開け放たれたガラス窓から帆を畳んだ帆船が浮かぶ長崎港を望める部屋の内装まで描き込まれている。右手奥の机上の櫃と同様の品が現出島カピタン「17.5畳の部屋」に展示されている〈円卓中央はカピタン Johan Willem de Sturler、その向かいにカピタン子息 Jacques Eduard de Sturler、カピタンに向かって右隣はVasco da Gama号船長 Ary Bezemer、左隣は商館医シーボルト、五つ紋付羽織袴に脇差を佩く日本人客2名(酒杯を持つ人物は三つ星紋其の左は木瓜紋か)。左側に佇むのはおそらく商館員 Verkerk Pistorius或は倉庫長 Johan Gerard Frederik van Overmeer Fisscher[27]。その他丸山芸妓3名、インド人召使い1名〉。
^ 出島商館長コンスタンティン・ランスト・デ・ヨングは1687年江戸参府時、幕閣に「1685年以来毎年3隻以上の船の入港が許されていない、銀・金輸出は制限された」事を抗議[28]
^ 蔵荷役(くらにやく)(倉庫係)や上筆者(書記官)の兼任あり。必ずしも上級商館員とは限らなかった[29]
^ 幕府は石造だった平戸商館の要塞化をおそれて破却している。なお、幕末期には出島にも石造の洋風建築がみられるようになった[2]
^ 出島外に診療所兼私塾・鳴滝塾[32]開設の官許を得た。
^ 他にも出島とエルミナ基地にだけオランダ国旗が掲げられていたとする説がある[42][43]
^ オランダ商館日記に、1820年、ヤン・コック・ブロムホフは長崎奉行の新旧交代に際し『性急者』(喜劇)と『二人猟師乳汁売娘』(オペレッタ Egidio Romualdo DUNI 作曲)を上演した、と記されている。共にフランス語作品だがオランダ語で着任したての一等書記官 Johan Gerard Frederik van Overmeer Fisscher[46]が主役を、その他の役は商館員・商船の船員がつとめた。川原慶賀が舞台装置・小道具衣装までハイライトシーンを描出[47][48]
^ Een van de illustraties in de "Souvenirs du Japon: vues d'apres nature avec texte" van Graaf Johan Maurits van Lynden, de gezant van de Nederlandse koning, die naar Japan werd gestuurd om het stoomschip Soembing (omgedoopt tot Kanko-maru) aan het sjogoen aan te bieden; hij verbleef in Japan van 22 juli tot 15 november 1855. ハーグ (1860-66)
^ Chromolithografie in kleur:Deshima gezien vanuit het zuiden door Carl Wilhelm Mieling[注釈 16] Koninklijke Bibliotheek
^ オランダ門閥Van Lynden家出身の著者の伯母はオラニエ公ウィレム5世寵姫 Constantia van Lynden、伯父はJan Elias Nicolaas van Lynden van Hoevelaken、父はJan Carel Elias van Lynden、弟はRudolph Willem van Lyndenである。「Nederland's Adelsboek・Lijst van Nederlandse adellijke families (alfabetisch)」も参照
^ 出島在任1848-1851年。Ann Bowman Jannetta, "The Vaccinators: Smallpox, Medical Knowledge, and the ‘Opening' of Japan", Stanford University Press, 2007. ISBN 9780804754897
^ 父Isaac le MaireはAVOC 筆頭株主・VOC最初の17人会の一員。喜望峰マゼラン海峡を経由せず南米を回る新航路でジャワ島に達したヤコブ・ルメールは兄。
^ 左隣のAndreas Everardus van Braam Houckgeest 著書 "Voyage de l'ambassade de la Compagnie des Indes Orientales Hollandaises, vers l'empereur de la Chine, dans les annees 1794 & 1795." 挿画。1795年乾隆帝治世60年記念式典に赴くオランダ大使兼VOC代表。三跪九叩頭の礼など作法に従った一行は紫禁城入城を許され円明園に入った。前年マカートニー伯ら英国使節団は拒絶されていた。
^ 左端からカピタン、乳母のPetronella Muns、息子のJohannes、長椅子に妻のTitia Bergsma、ジャワ人の下男・下女 石崎融思
^ 主に輸入した砂糖を収めたほか、様々な個人商売用の脇荷(わきに)収納にも使用。
^ 出島資料館本館。明治8年創設の出島メソジスト教会に隣接する校舎が明治16年に聖公会神学校となった。
^ 出島最後の外国人所有の英国式明治洋風建造物
^ 出島は国の史跡で、橋を支える橋台を設置できないので歩行者がいないときは出島側に負担がかからない工法が考案された[68][69]
^ VOC・AMSTERDAM ANNO1640・帆船絵の刻印から、1640年Assuerus Coster社製でVOCアムステルダム支店の帆船搭載の一門と考察される。1954年、浦上河口で発見され1978年、復元砲架が Netherlands Overseas Historical Preservation Society より寄贈された。

脚注^ イサーク・ティチング沼田次郎 訳『ティチング日本風俗図誌』 挿画 新異国叢書 第I輯 第7巻 雄松堂書店 1968年 ISBN 4841901728
^ a b c d e f g “長崎『出島』の復元と考察”. 大林組. 2020年7月9日閲覧。
^ 越中 1978, p. 160.
^出島和蘭商館跡 長崎市HP
^ a b c d e f g 大平晃久「 ⇒長崎出島における復元整備の経緯と問題点」『歴史地理学』第56巻第1号、21-31頁。


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