出島
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アントウェルペンのJohanna Elisabeth号・ヘントのVasco da Gama号[23]蘭国王誕生日奉祝の宴[注釈 9]1825年

通常は毎年2隻[注釈 10]のVOC船が季節風を利用してバタヴィアを出港した。バンカ海峡(英語版)、台湾海峡などを経て女島諸島野母崎をめざし長崎に例年7 - 8月ごろ入港、約4ヶ月の停泊中はオランダ人を中心に欧州人、マレー人が上陸したが、それ以外の期間は商館長(カピタン)、次席商館長(ヘトル[注釈 11]、倉庫長、書記役(1人-3人)、商館医、商館長の補助員数人、調理師、大工、召使(マレー人)など15人前後が常駐した。歴代のカピタンは、定期船出港後翌年夏までの閑期に貿易業務を終え江戸に上り、対日貿易の継続・発展を願い将軍に謁見・御礼言上し贈り物を献上した(カピタン江戸参府)。年次行事になったのは1633年(寛永10年)からで、長崎に移転後も継続された。1790年(寛政2年)以降は4年に1度と改められたが、1850年(嘉永3年)までに166回参府した。江戸の長崎屋源右衛門、京の海老屋などは「阿蘭陀宿」として使節の宿泊にあてられた。
町並

ポルトガル人の出島借地料は年銀80貫だったが、初代出島商館長マクシミリアン・ル・メールの交渉で銀55貫(現在の日本円で約1億円)に引き下げられた。ル・メールは1641年6月10日『平戸オランダ商館日記』に、出島への移転覚書として、倉庫が小さいが住居7棟、倉庫8棟を商館として取り仕切ることができる、と先ず記した。出島の建物はすべて木造建築だった[注釈 12]
管理ケンペル通詞今村源右衛門[30]

長崎奉行の管理下、出島の責任者「出島乙名(おとな)」は貿易についての監督や出島内で働いている日本人の監督指導、出島に出入するための門鑑(通行許可書)発行などを行った。「オランダ通詞」はオランダ語通訳の役人で、大通詞、小通詞、稽古通詞などの階級に分かれていた。大通詞は大体4名交代で年番通詞を勤め、江戸参府に同行し、風説書や積み荷の送り書きの翻訳をした。そのほかに日行使(にちぎょうし)、筆者、小使、火用心番、探番(門番)、買物使、料理人、給仕、船番、番人、庭番など100人以上の日本人が働いていたとされる[13]左:シーボルトの娘・楠本イネ
右:シーボルトの妻・楠本瀧 "OTAKSA" [31]

エンゲルベルト・ケンペルが「国立の監獄」と表現したように、原則として日本人の公用以外の出入りは禁止、オランダ人も例外を除いて狭い出島に押し込められたが、医師・学者としての信頼が厚かったシーボルトなどは外出を許されていた[注釈 13]

出島表門には制札場があって「定」と「禁制」の2つの高札がたてられていた。「定」とは、日本人・オランダ人で悪事を企む者(抜荷(ぬけに)・密貿易等)があったらすぐ告訴せよ、さすれば賞金を与えるという趣旨の高札で、「禁制」には次のように書かれていた。禁制  出嶋町

一、傾城之外女入事

一、高野ひじり之外出家山伏入事

一、諸勧進之者並ニ乞食入事

一、出島廻リ傍示木杭之内船乗リ廻ル事 附橋之下船乗通事

一、断ナクシテ阿蘭陀人出島ヨリ外江出ル事
右ノ条々堅可相守モノ也卯 十月[33]

つまり遊女以外の女、高野聖のほかの山伏や僧侶、勧進や乞食の出入り、出島の外周に打ってある棒杭の中、橋の下への船の乗り入れ、そしてオランダ人の無許可出島外出が禁じられていた[34]長崎くんち VOC帆船を模した山車

1651年長崎諏訪神社が勧請造営され、祭礼長崎くんちも始められると、中国人と共にオランダ人も桟敷席での観覧が許された。

1797年(寛政9年)、フランス革命戦争ネーデルラント連邦共和国フランス共和国に占領されてしまったため、数隻のアメリカ船がオランダ国旗を掲げて[35]出島での貿易を行う。1809年(文化6年)までに13回の来航が記録されている。詳細は「黒船来航#ペリー来航以前」を参照

1798年4月3日(寛政10年3月6日)、火災でカピタン部屋他西側半分を焼失し、他の建物は間もなく復旧したがカピタン部屋は商館の費用で建てることになっていたため財政難で10年ほど再建されず、時の商館長ヘンドリック・ドゥーフ[36]により1809年1月竣工した[37]左:レザノフ長崎来航 露兵とナジェージダ号 国立公文書館
右:フェートン号「崎陽録」長崎歴史文化博物館

1804年(文化元年)9月、ニコライ・レザノフロシア帝国との国交樹立・通商を求めて来日したが、半年間出島に留め置かれ、翌年長崎奉行所で通商拒絶を通告され釈放された。詳細は「幕末の砲艦外交」を参照

文化5年8月(1808年10月)、イギリス軍艦が侵入し武装ボートで出島商館員2名を拉致し鑑に連行した。その後食料や飲料水と引き換えに人質は釈放された(フェートン号事件)。

1810年ホラント王国が結局フランス帝国に併合され、翌1811年バタヴィアはイギリスの占領下に置かれ、1810年から3年間、出島には1隻のオランダ船も入港しなかったので、食料など必需品は幕命で長崎会所が毎月支給、長崎奉行は毎週2、3回、人を遣わして不足品の有無を問い合わせていた[38][39]。その他の支払いは長崎会所が立て替えたが、文化9年(1812年)、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}その総額が8万200両を超えた[要出典]。ドゥーフは蔵書を売るなどして財政難を凌いだ。エルミナ城 [40]

その後、1815年にはネーデルラント連合王国が成立。1810年からの5年間、オランダ国旗掲揚を継続したのは出島と蘭領ギニア海岸(英語版)首都エルミナ城だけだった [41][注釈 14]1817年[44][45]

1817年7月、ヤン・コック・ブロンホフ[注釈 15]が妻子や乳母を伴い商館長として着任した。幕府は女性を出島に入れる事を拒んだが、町の絵師達はこぞって彼女たちを題材に絵を描き、人形を制作するなどした。家族は16週間の出島滞在の後、同年12月ドゥーフと共にオランダに帰国した。

文政11年(1828年)9月、シーボルトの帰国直前、所持品に国外持出し禁止の大日本沿海輿地全図などが見つかり、それを贈った幕府天文方書物奉行高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死した。


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