出アフリカ
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3色型色覚はビタミンCを多く含む色鮮やかな果実等の発見と生存の維持に有利だったと考えられる[16][14]。霊長類の3色型色覚の適応的意義については結論が出ていないのが現状である(上記「果実説」のほか,「若葉説」や「皮膚色説」も存在する。)[17]

なお、時代を下ってヒトの色覚に鑑みるに、ヒトが属する狭鼻下目のマカクザル色盲がヒトよりも非常に少ないことを考慮すると、ヒトの祖先が狩猟生活をするようになり3色型色覚の優位性が低くなり、2色型色覚の淘汰圧が下がったと考えられる[16]。色盲の出現頻度は狭鼻下目のカニクイザルで0.4%、チンパンジーで1.7%であり[14]、現生のアフリカ系男性で2-4%、日本人男性で約5%、フランス、北欧系の男性で約10%である[18]。広鼻下目のヨザル属は1色型色覚であり、ホエザル属狭鼻下目と同様に3色型色覚を再獲得している[14][19]とされている。他方、ホエザルは一様な3色型色覚ではなく、高度な色覚多型であるとの指摘もある[20]。これらのヨザル、ホエザルを除き残りの新世界ザル(広鼻下目)はヘテロ接合体のX染色体を2本持つメスのみが3色型色覚を有し、オスは全て色盲である。これは狭鼻下目のようなX染色体上での相同組換えによる遺伝子重複の変異を起こさなかったためである[14]。ヒトは上記のような初期哺乳類と霊長目狭鼻下目の祖先のX染色体の遺伝子変異を受け継いでいるため、L錐体のみを保持したX染色体に関連する赤緑色盲が伴性劣性遺伝をする。男性ではX染色体の赤緑色盲の遺伝子を受け継いでいると色盲が発現し、女性では2本のX染色体とも赤緑色盲の遺伝子を受け継いでいる場合に赤緑色盲が発現する[21]。なお、日本人では男性の5%、女性の0.2%が先天赤緑色覚異常であるとされる[18]

3000万年前、漸新世初期に現在の気候が始まると最初の南極の氷が形成され、アフリカと南アジア以外の霊長類は絶滅へ向かった。当時の霊長類の一つが曲鼻猿亜目キツネザル科に近いノタルクタスである。

生き残った熱帯の集団は(それらはカイロの南西ファイユーム低地の後期始新世と初期漸新世の化石層でよく見られる)現生の全霊長類を、すなわち曲鼻猿亜目に属するマダガスカルキツネザル、東南アジアのロリス、アフリカのガラゴ、そして直鼻猿亜目に属する広鼻猿類(新世界ザル)と狭鼻猿類に属する旧世界ザル、大型類人猿、人類を生み出した。

新世界である南米の広鼻猿類(広鼻下目)は3000万年前から化石記録に現れるが、北アフリカの化石種で彼らの祖先に近縁なものは特定されていない。もしかすると西アフリカで異なる形態で生きていたのかも知れない。西アフリカからは、まだ解明されていない手段で南アメリカ大陸まで、霊長類、齧歯類ボアシクリッドが渡っている。洪水などで流されて大西洋経由で漂着したなどの可能性が考えられるも、決定的な説を見いだせていない。これに対して、広鼻下目(新世界サル)の祖先やテンジクネズミ上科の祖先がアフリカでできた浮島に乗って大西洋を流されて新世界の南アメリカ大陸に到着したという説も紹介されている[22]

既知のもっとも初期の狭鼻猿類は北ケニア地溝帯のEragaleitから見つかっているカモヤピテクス (Kamoyapithecus) で、2400万年前頃生きていたと見られている。その祖先は恐らく、エジプトピテクスかプロピリオピテクス (Propliopithecus) かパラピテクス (parapithecus) の近縁種と見られ、それらは3500万年前のファイユームの地層から見つかっている。その間の1100万年を繋ぐ化石は見つかっていない。
ヒト上科とオナガザル上科の分岐

霊長類の狭鼻下目ヒト上科オナガザル上科に分岐したのは、3500万年前から3000万年前頃というのがゲノムベースの分析による2000年代前後の定説であったが[23][24]ミシガン大学の研究チームによる2010年発表の新説では、数百万年若い2800万年前頃から2400万年前頃と推定された[23][24]。ヒト上科(テナガザルオランウータンチンパンジーゴリラヒト)の共通の祖先が旧世界のサルから分枝した際に、尿酸オキシダーゼ活性が消失したものと推定される[25]。尿酸オキシダーゼ活性の消失の意味付けは、尿酸が直鼻猿亜目で合成能が失われたビタミンCの抗酸化物質としての部分的な代用となるためである[26]。しかし、ヒトを含むヒト上科では、尿酸オキシダーゼ活性の消失により難溶性物質である尿酸をより無害なアラントインに分解できなくなり、尿酸が体内に蓄積すると結晶化して関節に析出すると痛風発作を誘発することとなる[27]

テナガザルを含めた現生類人猿(=ヒト上科)ではは失われている[28]

中新世初期にあたる約2200万年前、東アフリカの樹上棲に適応した初期の多種の狭鼻猿類は、それ以降の多様化のきっかけとなった。約2000万年前の化石は初期の旧世界ザルに属するビクトリアピテクス (Victoriapithecus) と思われる断片も含む。そのほかの形態は現生類人猿に近縁であるという明白な証拠はないが、類人猿に分類されている。現在認められているこのグループの属には、プロコンスル、ラングワピテクス (Rangwapithecus)、デンドロピテクス (Dendropithecus)、リムノピテクス (Limnopithecus)、ナコラピテクス、エクアトリウス (Equatorius)、ニャンザピテクス (Nyanzapithecus)、アフロピテクス (Afropithecus)、ヘリオピテクス、ケニアピテクス(ケニヤ…、ケニャ…、Kenyapithecus)がおり、全て東アフリカから1300万年以前に見つかっている。

1980年代ドイツで見つかった化石は約1650万年前のもので、東アフリカで発見された類似した化石よりも150万年ほど古いと考えられた[29]。それは最初に大型類人猿の系統が現れたのがアフリカでなくユーラシアであったかも知れないと示唆する。約1700万年前にこの2つの大陸が地中海の拡大によって切り離される直前に、ヒト科の初期の祖先がアフリカからユーラシアへ渡ったのかも知れない。これらの霊長類がユーラシアで繁栄し、アフリカ類人猿と人類を生むことになる系統(ドリオピテクス)がヨーロッパまたは西アジアからアフリカに南下した[29]

遥かに離れた発掘地から中期中新世の旧世界ザルではない骨格が見つかっている。ナミビアの洞窟からオタビピテクス (Otavipithecus)、フランススペインオーストリアから、ピエロラピテクス (Pierolapithecus) とドリオピテクス (Dryopithecus) などである。それらは中新世初期から中期のアフリカと地中海沿岸が比較的暖かく穏やかな気候で、霊長類の多様化を促した証拠である。

中新世のヒト上科の証拠でもっとも新しいものはイタリアのオレオピテクス (Oreopithecus) で、約900万年前の石炭層から見つかっている。
ヒト上科の下位分類

ヒト上科からヒト亜族までの分類は、学説によって数種類に分かれる。以下は、オランウータン類をヒト科の下位に分類する学説に基づくものである。

表記は左から順に、1. 学名、2. あれば和名、( )内は別の和名や和名の表記揺れやその他の補足情報、3. 学名と表記の異なる英語名があればそれを含む全ての英語名、4. 特記事項。


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