凱旋門賞
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2008年 - カタール競馬馬事クラブがスポンサーになり、賞金が大幅に増額。芝の競走としては世界一の賞金額となる(全競走では世界2位)。

2016年-2017年 - ロンシャン競馬場の改修工事により、シャンティイ競馬場で開催された[3][4]

2018年 - ロンシャン競馬場の改修工事が終了(競馬場名もパリロンシャン競馬場と改称)し、当地で3年ぶりに凱旋門賞が開催される。勝ち馬のエネイブルは前年に続き連覇。なお、異なる競馬場での凱旋門賞制覇(連覇も含めて)は史上初。

2019年 - ブリーダーズカップ・チャレンジシリーズに参加。

フランス競馬の起源と国際競走の創設
フランス競馬の成立

フランスでは狩猟乗馬と馬場馬術が発展したが、競馬に関しては後進国だった。イギリス風の競馬が持ち込まれたのは17世紀になってから[5]で、ギャンブルを伴う競馬はフランス貴族の間で流行し、彼らはイギリス人を真似て、乗馬服や、さらには乗馬スタイルもイギリス風に変えた[6]。競走馬は全てイギリスから輸入しており、18世紀半ばには毎年数千頭の競走馬がイギリスからフランスに売られた。また、多くのイギリス人の調教師や騎手が招聘された。

19世紀にはいると、ナポレオンルイ18世シャルル10世など歴代の王は競馬の制度の整備を行った。しかし、こうした官製の「競馬」はあまり流行らなかった。賞金も低く、一般の興味を引くことはなかった。農民は農業に適した重輓曳種に傾倒していたし、国民の自尊心は敵国であるイギリスの馬産に学ぶことを妨げていた[7]。フランス国内におけるイギリス純血種(後にサラブレッドとして確立する品種)の生産の起源は1770年代とされているが、19世紀になっても相変わらず毎年15000から20000頭の軽種馬を輸入に頼っていた。

1833年にようやく、フランス馬種改良奨励協会が組織された。会長にはイギリス人[注 13]ヘンリー・シーモア=コンウェイ卿が就任した。協会は、イギリス風の競馬を行い、賞金によってサラブレッド生産を刺激し、フランス産のサラブレッドの資質向上を目指した。そして翌1834年から、パリ(シャン・ド・マルス)やシャンティイで競馬を開催するようになる。1836年にはイギリスを模倣してジョッキークラブ賞(フランスダービー)が、1843年にはディアヌ賞(フランスオークス)が創設された。これらの公認競馬に出走できるのはフランス産の競走馬に限られていた。
パリ大賞の創設1857年に新設されたロンシャン競馬場

競馬の人気が定着すると、軍の演習場も兼ねていたシャン・ド・マルスの競馬場の土質が問題となってきた[注 14]。1856年には皇帝大賞に43頭もの登録があり、いかにも手狭となった。こうして1857年にブローニュの森に隣接したロンシャン草原に新しく立派なロンシャン競馬場が新設された。奨励協会は、さらなるフランス馬の資質向上のために、3歳の一流馬による2400メートルの国際競走を開催することにした。10万フランの巨額の賞金がパリ市とパリの鉄道各社から提供され、皇室からも美術品が下賜されることとなった。イギリス競馬界との話し合いを経て、最終的にはイギリスとフランスのダービー馬が集まるように、開催時期は英国ダービーの11日後の5月末とされた。両ダービーで敗れた実力馬にも新たなチャンスとなるよう、距離は3000メートルで行われることとなった。こうして1863年に、世界的にみて初の本格的な国際レースとなるパリ大賞が創設された。
市議会賞の創設

19世紀の終わり、フランスで「パリミュチュエル方式」の馬券が発明された。すぐに、奨励協会の発売するパリミュチュエル方式の馬券以外は非合法となり、奨励協会は豊富な資金を手にするようになった。この頃すでにパリ大賞は30年目を迎え国際的な大レースとして名声を確立していたが、パリ大賞は3歳馬しか出走することができなかった。そこで、1893年の秋に、4歳以上の国際競走として2400メートルの市議会賞(コンセイユ・ミュニシパル賞)が創設された。このレースは外国では好評を博したが、負担重量の問題から、フランス国内ではパリ大賞と並ぶような高い権威を得られなかった[9]
凱旋門賞の誕生

このため、新たに馬齢重量による2400メートルの国際大レースが秋のロンシャン競馬場に創設されることになった。競走の目的は外国産馬との対戦によってフランス産馬の優秀さを証明することにあった[9][1]。当初、この大レースは「戦勝賞(ヴィクトワール賞 Prix de Victoire)」の名で計画されていたが、奨励協会の事務局長だったルネ・ロマネ=リヨンデによって「凱旋門賞」という名称に改められた[1]。凱旋門賞は、それまで市議会賞(コンセイユ・ミュニシパル賞)が行われていた日程で開催されることになった。このため市議会賞は1週遅い時期に変更され、さらにそのためにグラディアトゥール賞という長距離レースの日程が1日後へずらされた[注 15]

フランスでは1914年からはじまった第一次世界大戦のため、1915年から1918年は競馬が行われておらず、ロンシャン競馬場が再開されたのは1919年になってからだった。このため1920年に創設された凱旋門賞は、フランス競馬と馬産界の復興のシンボルとなることを期待された。
第1回凱旋門賞

画像外部リンク
第1回凱旋門賞の決勝線の様子と口取り式の写真を報じた1920年10月4日付「エクセルシオール」紙の1面
フランス国立図書館

凱旋門賞の優勝賞金は約17万フランで、パリ大賞の33万フランには遠く及ばないものの、イギリスダービー(約16万フラン)やフランスダービー(約14万フラン)を上回る賞金が提供された。しかしながら、フランス国内の鉄道は第一次世界大戦によって破壊されており、移動に時間がかかりすぎるためイギリスからの一流馬の参戦はなく、ヨーロッパの他の国々は戦争で疲弊し競馬どころではなかった。このため第1回の凱旋門賞は、奨励協会の期待に反し、外国からの出走はイギリスの[注 16]カムラッド(英語: Comrade)とスペインのヌウヴェラン(Nouvel An)のわずか2頭だった。このうちカムラッドは春にパリ大賞を人気薄でまんまと逃げ切った[注 17]馬で、凱旋門賞では3番人気(4.4倍)となった。迎え撃つフランス勢の一番手は、前年の2歳チャンピオンのシドカンペアドール(Cid Campeador)で、3倍の本命となった。これに続くのが、パリ大賞でカムラッドを短頭差まで追い詰めたアンブリー(Embry)で、直前のロワイヤル・オーク賞を制して3.8倍の2番人気だった。このほかにはフランス牝馬二冠のフラワーショップ(Flowershop)が出走した。レースが始まると、カムラッドは抑えたままの体勢で優位となり、そのまま鞭を使うことなく楽勝[10]し、もとは25ギニーの安馬だったカムラッドが、7戦全勝で初代凱旋門賞優勝馬となった。こうして第1回の凱旋門賞は、「外国の一流馬との対戦」も「フランス馬の優秀さの証明」もいずれも果たすことができずに終わった。
第二次世界大戦以前の凱旋門賞
第2回凱旋門賞初めて凱旋門賞を連覇したクサール

1921年、2回目の凱旋門賞は賞金が倍になり、優勝賞金は約34万フランとなった。しかしこの年は、フランスダービー馬のクサール (Ksar) がパリ大賞でイギリス馬に惨敗[注 18]し、前年のフランスダービー馬スールビエ (Sourbier) も共和国大統領賞でイギリスのハンデキャップホース[注 19]に敗れ、フランスとイギリスのサラブレッドの間にはかなりの実力差があるとみなされた。そのためこの年もイギリスから一流馬の参戦はなかった。クサールは凱旋門賞の直前に復調し、本命(2倍)となった。これに続いたのがイギリスのスクエアメジャー (Square Measure)[注 20]だったが、創設間もない大レースのため主催者の不手際があり、出走前に2回もスタンド前を行進させられて興奮し、スタート前に暴走してしまった。同様にイギリス牝馬のブルーダン (Blue Dun) も騎手の制御が効かなくなって、レースが始まると2400メートルの競走とは思えないスピードで先頭を切った。ブルーダンは最終コーナーを待たずに失速したが、これにかわって先頭に立ったのはクサールで、そのまま押し切って優勝した。創設2年目にして初めてフランス産馬が凱旋門賞優勝を果たすことになったが、クサールの生産者は前年の覇者カムラッドの馬主だったサンタラリであり、彼は2年連続で優勝馬の関係者となった。
外国馬の不在

3年目の凱旋門賞にはフランス以外からの参戦がなく、クサールが大本命(1.3倍)、2番人気以降は12倍以上となって、クサールが難なく連覇を達成した。第4回凱旋門賞でのパース。騎手はフランク・オニール(英語版)。

クサールが引退したあと、4年目の凱旋門賞はイギリスのパース(英語: Parth)が優勝した。しかしながらパースはイギリス国内で最も優れたサラブレッドというわけではなく[注 21]、この年のイギリス二冠馬パパイラス (Papyrus) は凱旋門賞には目もくれず、アメリカの競走馬と対決するために渡米していた。


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