准大臣
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その初例は後醍醐天皇の時に股肱の老臣吉田定房に行われたものである。定房は元亨3年(1323年)に権大納言を辞していたが、元徳2年(1330年)1月13日になって名家出身者で初めて従一位に叙せられた。その後、元弘の乱に伴う後醍醐天皇の廃位と復位を経て、建武元年(1334年)6月26日、従一位前権大納言吉田定房に准大臣の宣下があった。さらに後醍醐は同年9月9日には定房を内大臣に昇進させている。この人事は当時強い批判を受け、その後定房とともに南朝に仕えた北畠親房の『職原鈔』のなかでも批判的に記されている。

准大臣宣下の対象はその後同列の羽林家出身者にも広げられるが、やはり名家出身者が大多数を占めるようになり、逆に摂関家・清華家から准大臣が出る例は跡を絶った。おそらく唯一の例外として、大臣家の家格である中院通淳(当時正二位前権大納言)が危篤に陥ったため、宝徳3年(1454年)11月19日に従一位に昇進したうえで准大臣宣下を受けた例がある。通淳は9日後の28日に死去した。

その後も名家・羽林家出身の中で大臣に進む者もいたが、あくまでも例外的なものであり、家の先例としては主張できない性質のものだった。従一位に叙されて准大臣宣下を受けることが、名家・羽林家にとって現実的な極官としてみなされるようになる。このため、死去や出家の直前にこれまでの功労に報いる意味で准大臣宣下が行われる例も増加していった。また、名家・羽林家とひとくくりにされてはいるが、現実には家ごとに到達できる官職位階、昇進のコースやスピードが細分化されてそれぞれ定められており、家によっては中納言や参議までしか到達できない家もあった。このような家には当然准大臣となる道は閉ざされている。幕末に五摂家のひとつ一条家に侍として仕えた下橋敬長は、准大臣になれる家は、中山家松木家園家広橋家くらいのものだったと大正時代になってから回顧している。もちろん、実際には、准大臣を出した家はさらに多いが、名家・羽林家であれば誰でも准大臣になれたわけではなかったことにかわりはない。

なお、准大臣は官職ではないため「公卿補任」などの史料にも必ずしも網羅されておらず、宣下を受けた者の全容は容易に知りがたい。

武家官位の枠内での准大臣は、江戸幕府第11代将軍徳川家斉の実父治済が唯一の例である。
准大臣と知太政官事の混同[ソースを編集]

中世の故実書である『職原鈔』『官職難儀』などでは、知太政官事を准大臣と同じものとして扱っている。しかし、准大臣があくまで参内の際の席次の待遇とそれを表す称号に過ぎないのに対し、知太政官事は令外官とはいえれっきとした官職であり、しかも太政官の総裁として皇族のみが就任した重職であって、両者はまったく異質で別個のものである。このような混同が生じたのは、『延喜式』で知太政官事の季禄が右大臣に准ずるものと規定されていたこと、『公卿補任』において、天平年間に知太政官事であった鈴鹿王が右大臣橘諸兄の下の位置に記載されていることなどからきた誤解である。
准大臣の一覧[ソースを編集]

表中、明治4年以前の日付はいずれも旧暦。死亡年月日に添えた括弧内の数字は享年を表す。また、没後に准大臣を追贈された者も末尾に添えた。

准大臣家格宣下時の官位宣下日とその後の動向宣下時の天皇備考
ふじわらの これちか
藤原 伊周摂家従二位
前大宰権帥寛弘5年(1008年)1月16日 准大臣宣下

寛弘7年(1010年)1月28日 死去 (37)
一条天皇

内覧内大臣

摂政関白藤原道隆の嫡子

ほりかわ もととも
堀川 基具清華家従一位
前大納言弘安7年(1284年)3月1日 准大臣宣下

正応2年(1289年)8月29日 任太政大臣

正応3年(1290年)3月13日 辞太政大臣

永仁4年(1296年)11月3日 出家

永仁5年(1297年)5月10日 死去 (66)
後宇多天皇

淳和奨学両院別当

つちみかど さだざね
土御門 定実清華家従一位
前大納言正応5年(1292年)8月14日 准大臣宣下

永仁4年(1296年)12月27日 任内大臣

永仁5年(1297年)10月16日 止内大臣

正安3年(1301年)6月2日 任太政大臣

正安4年(1302年)7月 辞太政大臣、出家

嘉元4年(1306年)3月30日 死去 (66)
伏見天皇

淳和奨学両院別当

なかのいん みちより
中院 通頼大臣家従一位
前権大納言永仁5年(1297年)10月16日 准大臣宣下

嘉元2年(1304年)10月29日 出家

正和元年(1312年)8月8日 死去 (71)
伏見天皇

奨学院別当

いちじょう さねいえ
一条 実家摂家庶子従一位
前権大納言嘉元3年(1305年)12月8日 准大臣宣下

嘉元3年(1305年)閏12月21日 任内大臣

嘉元4年(1306年)12月6日 任太政大臣

延慶2年(1309年)10月15日 辞太政大臣

正和3年(1314年)5月28日 死去 (65)
後二条天皇

摂政関白一条実経の庶子

このえ かねのり
近衛 兼教摂家庶子従一位
前権大納言延慶3年(1310年)4月28日 准大臣宣下

元亨3年(1323年)? 出家

延元元年(1336年)9月2日 死去 (70)
花園天皇

関白近衛基平の庶子

きたばたけ ちかふさ
北畠 親房清華家入道 正二位
前大納言元弘2年(1332年[4]? 准大臣宣下

正平6年(1351年)11月 准三宮宣下

正平9年(1354年)4月17日 死去 (62)
後醍醐天皇

淳和奨学両院別当

出家後の宣下

よしだ さだふさ
吉田 定房名家従一位
前権大納言建武元年(1334年)6月26日 准大臣宣下

建武元年(1334年)9月9日 任内大臣

建武2年(1335年)2月26日 辞内大臣

延元3年(1338年)1月23日 死去 (65)
後醍醐天皇
なかのいん ともみつ
中院 具光[5]羽林家従一位
前権大納言?准大臣宣下日不詳

元中3年(1386年)2月以降 死去 (不詳)
不詳長慶天皇

南朝による宣下

出家後の宣下か

中院義定とするのは誤り

かでのこうじ かねつな
勘解由小路 兼綱
(広橋 兼綱)
名家従一位
前権大納言永徳元年(1381年)9月4日 准大臣宣下



翌日出家

永徳元年(1381年)9月26日 死去 (67)
後円融天皇

北朝による宣下

さんじょう さねとし
三条 実音
(正親町三条 実音)
大臣家従一位
大宰権帥
前権大納言永徳2年(1382年)4月8日 准大臣宣下

至徳3年(1386年)2月16日 死去 (67)
後円融天皇

北朝による宣下

までのこうじ なかふさ
万里小路 仲房名家従一位
前権大納言永徳2年(1382年)4月19日 准大臣宣下

嘉慶2年(1388年)6月2日 死去 (66)
後小松天皇

北朝による宣下

よつつじ よしなり
四辻 善成賜姓王氏従一位
前権大納言嘉慶元年(1387年)12月8日 准大臣宣下

明徳5年(1394年)6月5日 任内大臣

応永元年(1394年)12月25日 辞内大臣

応永2年(1395年)7月20日 任左大臣

応永2年(1395年)8月29日 辞左大臣、出家

応永9年(1402年)9月3日 死去 (77)
後小松天皇

北朝による宣下

四辻宮第3代 善成王


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