准士官
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工兵科の上等監護は、工兵方面に配置して工役長[注 7]の等級に次ぎ、方面提理[注 8]並びに園区長[注 9]に属して専ら署務を助理するとした[22]。また、上等監護の級次は曹長下副官の上にあって直ちに少尉につぐものとした[22]。上等監護は提理もしくは園区長に属しその命を受けて専ら帳簿の記注と費用の会計とに任した[23]。また命を受けて仕様設計案・予算案を作成して提理もしくは長の決裁をとりその経費の記注は一々査照してその号数を附し混親がないようにさせて、一箇月・一箇年の初め毎に前月・前年の支度月計表・年計表を作り所属長官を経て陸軍卿に提出させた[23]。その提理に属する上等監護は方面所属の工具庫並びに図籍庫を管理してその収蔵を厳にし工具もしくは図籍の号数を記上し整然として混雑の煩わしさがないようにさせ、ただしその出納の権限は提理に在ってその命によってこれを出納し、かつ兼ねて両庫の鍵の収蔵に任じさせた[23]

明治8年9月24日改定陸軍武官官等表(准士官の部)[6] [7]砲兵科工兵科軍楽部
十等准士官上等監護上等監護軍楽部准士官[24] [25]楽長

1875年(明治8年)11月24日に陸軍武官服制を改正し准士官の服制を定めており[26]、准士官の楽長や砲・工兵科上等監護の服制は少尉に準じたもので、正帽の縦横章の横線は少尉より1条少ない金線1条で縦線は尉官と同じ、頂上章の星章は尉官より一つ少ない1個、顎紐は士官と同じ、正衣には襟章があり縁辺に金線1条、縫製釦敷物入れ等尉官と全く同じ[27]
明治10年の日本陸軍

1877年(明治10年)2月2日から陸軍各隊の下副官(かふくかん[28][注 11])に在職中の曹長は准士官を以って処遇することになる[31] [32] [注 12]。下副官の設置は准士官よりも古く明治2年頃にあっては總嚮導が後の下副官に等しいものであったが[33]版籍奉還の後の1870年10月26日(明治3年10月2日)に陸軍はフランス式を斟酌して常備兵を編制する方針を示して各の兵も陸軍はフランス式に基づき漸次改正編制させていったときに[34]歩兵大隊等の編制上の職務として下副官を置いている[35]。明治3・4・5年の頃にあって曹長は下副官の職を取るとされ[33]廃藩置県の後の1871年明治4年8月)以後の陸軍においては[注 13]、明治6年の陸軍武官俸給表では曹長の職務として下副官には増給があり[37] [38]、明治8年の陸軍武官服制では下副官は曹長の職務の一分課であるけれども、下副官曹長の袖章は金線1条内記打3条で他の曹長よりも内記打を1条多くして区別していた[39]。その後、下副官に在職中の曹長は准士官を以って処遇することになったことから、1877年(明治10年)2月26日に陸軍武官服制を追加並びに改正し、諸兵下副官の服制は上等監護と同様の准士官のものに改められた[40]

1877年(明治10年)1月に官等を17等に増加しているが[41]1879年(明治12年)10月10日達陸軍武官官等表では准士官は引き続き十等としており、このとき官名に各兵科の名称を冠することにして、従前の上等監護はそれぞれ砲兵上等監護・工兵上等監護となる[42]

1877年(明治10年)1月29日から9月24日にかけて西南戦争があった。

1878年(明治11年)3月13日に陸軍少尉試補並びに会計軍吏試補・軍医試補・馬医試補の席次については、試補官が准士官の次席となっては職任上その当を得ないことから、試補官を准士官の上席と定めた[43] [44]

1881年(明治14年)4月28日に改正した陸軍武官進級条例では、砲・工兵並び軍楽部の准士官の進級に関する定めを設けた[45]

1883年(明治16年)5月4日太政官第21号達で陸軍武官官等表を改正した[46]。将官並びに相当官の他はすべて官名から陸軍の二字を除いた[注 14][46] [44]。軍楽部は楽長を軍楽長(ぐんがくちょう[48])に改めた[46] [44]

明治16年5月4日太政官第21号達陸軍武官官等表(准士官の部)[46]十等准士官砲兵上等監護工兵上等監護軍楽部准士官軍楽長

1885年(明治18年)5月5日太政官第17号達により陸軍武官官等表を改正して軍楽長の官等を改めて九等に一等軍楽長を置き軍楽部士官とし、十等に二等軍楽長(にとう・ぐんがくちょう)を置き軍楽部准士官とした[注 15]

明治18年5月5日達第17号による陸軍武官官等表改正(軍楽部士官・准士官の部)[49]九等軍楽部士官一等軍楽長
一等 二等
十等軍楽部准士官二等軍楽長
一等 二等

明治19年の日本陸軍

1886年(明治19年)3月9日勅令第4号で陸軍武官官等表を改正して再び官名に陸軍の2字を冠することとした[50] [注 16] [注 17]。1886年(明治19年)3月12日陸軍省令乙第1号により陸軍各兵科武官へは文官より転任することが出来なくなる[52] [注 18]

1886年(明治19年)3月12日に高等官官等俸給令(明治19年勅令第6号[54])を定め、同年4月29日に判任官官等俸給令(明治19年勅令第36号[55])を定めて高等官判任官は別の官等の枠組みをそれぞれ用いることになったことから、明治19年勅令第37号により陸軍准士官・下士の官等は10等に分けた判任官のうち判任一等より四等までとした[56] [注 17]

明治19年3月9日勅令第4号による陸軍武官官等表改正[50]准士官陸軍砲兵上等監護陸軍工兵上等監護軍楽部准士官陸軍二等軍楽長

大日本帝国陸軍では、日本陸海軍の准士官は概ね判任官1等であり、大佐以下少尉以上に相当する奏任官とは明確に区別されていた。


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