このイラン革命によってアラブ諸国や東西諸国は動揺し、1980年にイラン・イラク戦争となって火を噴いた。欧米ソ中はイスラム革命が世界に広がることやさらなる石油危機を恐れ、イラクを援助して中東最大の軍事大国に仕立てた。戦争は長期にわたり、1987年には米軍が介入したが、決着のつかないままに終わった。しかし、この時のアメリカによる中東政策が、後の21世紀の世界情勢に大きな影響を与えることになった。一方、ソ連は国内情勢の変化(下記参照)によって1989年には泥沼のアフガンから完全撤退、世界から急速にソ連の影響力が弱まりつつあった。
主な出来事
イラン革命(1979年)
イラン・イラク戦争(1980年-1988年)
ウィスキー・オン・ザ・ロック(1981年)
フォークランド紛争 (1982年)
ロナルド・レーガンによる「悪の帝国発言」と戦略防衛構想(1983年)
改革から冷戦終結、ソ連崩壊(1985年-1991年)
ゴルバチョフによる改革(1985年-1988年)超大国同士のリーダーが会談している様子(1985年、ロナルド・レーガンとミハイル・ゴルバチョフ)INFに調印するミハイル・ゴルバチョフとロナルド・レーガンボリス・エリツィンとジョージ・H・W・ブッシュ
1985年、ソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは、改革(ペレストロイカ)および新思考外交を掲げて、経済が疲弊した国内体制の改良と、予算案を大幅に削減した大胆な軍縮提案を行い、さらには西側との関係改善に乗り出す。
1987年にアメリカとの間で中距離核戦力全廃条約(INF)を調印した。この緊張緩和によって、両国の代理戦争と化していたオガデン戦争やアンゴラ内戦が1988年から順次終結し、リビアとフランスが介入したチャド内戦も終結した。カンボジア内戦も1988年から和平会議が開催された。 また、既に1980年代初頭から独立自主管理労働組合「連帯」が結成され民主化の動きが見られていたポーランドでは1989年の選挙でポーランド統一労働者党が失脚して政権が交代し、同様に東欧諸国の中でも比較的早くから改革路線を行っていたハンガリーやチェコスロバキアでもソ連式共産党体制が相次いで倒れ、夏には東ドイツ国民が西ドイツへこれらの国を経て大量脱出した。 東ドイツはあくまで強硬な社会主義路線を取り民衆を抑え込もうとしたが、10月のライプツィヒで行われた月曜デモには10万人が参加し、事態を収拾できなかった社会主義統一党内部では、幹部であったエーリッヒ・ホーネッカーの求心力が低下し、まもなく総辞職に追い込まれた。後任の指導部も民主化を求める動きをせき止められず、東ドイツは政治・経済が崩壊状態に陥った。 このため、11月9日には東ドイツがベルリンの壁の開放を宣言、冷戦の象徴ともいうべきベルリンの壁が崩壊した。
東欧革命と冷戦終結(1988年-1989年)