冷戦
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

しかし、四度にわたる中東戦争を主導してきたエジプトは戦争前にソ連の軍事顧問団を追放し[15]、戦争後はソ連と関係断絶し、ソ連と対立するアメリカや中国から軍事的経済的援助を受け始め[16][17][18][19]、アメリカの主導でキャンプ・デービッド合意が成立し、さらにアメリカは西側に対する石油禁輸を主導したサウジアラビアドル建て決済で原油を安定的に供給することと引き換えに安全保障を提供する協定(ワシントン・リヤド密約)を交わしてオイルダラーを確立することでドル防衛に成功し[20][21][22][23][24]、単純な米ソ対立が反映されてきた中東でも新たな冷戦の構図が生まれつつあった。

アフリカでは、1978年からエチオピアソマリアの間でオガデン戦争が起こっていたが、エチオピアが1974年の軍事クーデターで社会主義を宣言したため、ソ連とキューバがエチオピアを、ソマリアをアメリカと中国とルーマニア、エジプトなどが支援した。アンゴラ1975年の独立直後から3つの武装勢力が対立し内戦となり、これに南アフリカザイールキューバが介入、間接的にソ連・中国・アメリカが援助を行い、泥沼化した。

東南アジアでは、共産主義国家同士のカンボジア・ベトナム戦争が起き、ソ連寄りのベトナムの侵攻で親中国の民主カンプチアが崩壊するも民主カンプチアの亡命政府は中国・ASEAN・日本・アメリカの支援で国連総会の議席を保ち続け、タイとの国境で親ベトナムのヘン・サムリン政権に対しゲリラ活動を行ってカンボジア内戦は長期化した。

ラテンアメリカでは、チリにおいて民主的な社会主義政権であるサルバドール・アジェンデ政権を転覆させたチリ・クーデターで成立したアウグスト・ピノチェトが中国とルーマニアを除く共産圏と断交し、親米軍事政権の南米諸国は共産主義勢力の排除で連携するコンドル作戦を立ち上げた。

ソ連は1970年代に世界的に勢力を伸ばし、統一ベトナム、カンボジア(親ベトナム政権)、ラオス、エチオピア、南イエメンの共産主義政府と協力関係を築き、アンゴラ、モザンビークニカラグアなどで共産主義勢力に加担して紛争に介入し、シリアイラクなどアメリカが近づきにくい国に接近し、友好関係を築いた。ソ連の影響力は1980年代にかけて第三世界に広がった。
新冷戦(1979年-1985年)チャールズ・ウィルソンムジャーヒディーン

1978年に成立した共産主義政権を支えるために、1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻した。このため、西側世論が反発して東西は再度緊張、影響は1980年モスクワオリンピックへの西側に加えて中国、さらにエジプトやサウジアラビア、パキスタンなど親米アラブイスラム諸国も加わったボイコットとして現れた。東側は報復として、1984年ロサンゼルスオリンピックボイコットした。アメリカはCIAチャールズ・ウィルソンらによる総額数十億ドル規模の極秘の武器供給などによる支援にてアフガニスタンの反共ムスリム武装勢力「ムジャヒディン」をエジプトやサウジアラビア、パキスタンなどとともに援助した[25]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:229 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef